TAOコンサル『市民派・リベラルアーツ』

「エッセイ夏炉冬扇独り言」
「歴史に学ぶ人間学」
「僕流ニュースの見方」
「我が愛する映画たち」

「折々のうた」の大岡信を送る会に参列・献花!

2017年06月29日 | 東西の詩人詠みくらべ

親友Rieさんに誘われ詩人・評論家大岡信を送る会に参列、献花もさせていただいた。会場は明治大学記念館。
詩人が好きだったという大振りの紫陽花が印象的な立派な祭壇であった。

大振りの紫陽花で飾られた祭壇

文芸評論家粟津則雄氏の「大岡、今や別れの時だ。おっつけ俺も駆けつける。・・」や、明治大学学長土屋恵一郎氏の、全共闘に参画していた学生時代、「君たちが世界の全てを否定するなら、僕は全世界を肯定する。」と言われた思い出話など、心に残る弔辞であった。
詩人谷川俊太郎氏が自らの詩を朗読。俳優白石加代子は大岡信の詩「水底の吹笛」など4作を披露したが、力の籠った朗読に圧倒されてしまった。作曲家一柳慧氏のポロポロとピアノを叩く演奏も素晴らしかった。

奥様大岡かね子氏の「今日は涙の粒のような雨の中、皆様に送られて幸せと思います」のご挨拶も心に沁みた。

谷川俊太郎氏など大岡信氏の知人たちが歓談

送る会のあと、Rieさんとへぎ蕎麦と焼酎で献杯。
大岡信が残した言葉の数々は我々の精神の糧として生き続けるに違いない。

  自宅本棚で見つけた「折々のうた」・・1980年発行、定価380円とある。

桜の季節になると、西行終焉の地、河内の弘川寺の山桜を思い出す

2016年04月16日 | 東西の詩人詠みくらべ
 桜の季節になると西行を思い出す。毎年似たような雑文を書いているが、そのくらい西行のことが好きということか・・・。

 何年か前、西行終焉の地、大阪河内の弘川寺を訪ねた。弘川寺は奈良・葛城山の麓にあり、天智天皇の時代に開創された寺である。西行は桜が好きだったとみえ、あちこち桜の花が美しい地に庵を構えたが、晩年はこの寺の座主空寂上人を慕って訪ね、ここで暫らく暮らしたようだ。しかし、翌年の文治6年2月に没した。あの歌、『願わくは花のもとにて春死なむ・・』のとおり、きさらぎの16日のことであった。これはお釈迦さまが入滅した日へのあこがれを詠んだ歌であり、その望んだ時期に亡くなったので人々はおおいに驚いた。



 弘川寺の本堂の右手の山桜咲きこぼれる小道を進むと、西行座像を祀る「西行堂」があり「西行墳」がある。そうか、西行の墓はここにあったのだ。墓の手前の歌碑には、『願わくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃』の歌が刻まれている。脇には『仏には桜の花を奉れ わが後の世を人とぶらはば』の歌碑もある。この時、小生、感無量であった。

「願わくは・・」の歌碑の前で

 西行は平安時代末期の歌人であり、鳥羽上皇の警護にあたる北面武士であった。23歳の時、突然出家するのだが、その理由はよくわからない。しかし、この弘川寺の桜山を散策しながら、ふと、出家するしかなかったであろう、やみにやまれぬ思いがわかる気がした。西行墳より東方の小高い山には、たくさんの山桜が咲き誇り、薄桃色の花が満開であった。私は、西行の庵跡のある桜山を歩きながら、妻子を捨て、ただ一人旅をつづけた西行の人生に思いを馳せた。

≪その他、西行の歌を二つ≫

①出家するに当たって詠んだ歌・・・『惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ』

②桜の美しい地に庵を構えて詠んだ歌・・・『とふ人も思い絶えたる山里は さびしさなくば住み憂からまし』

  webより借用


『代々木果迢会』の能舞台にて“西行桜”を観る

2013年05月24日 | 東西の詩人詠みくらべ
 ご縁があって『代々木果迢会』の能舞台にご招待いただいた。
この能舞台は私の書斎からすぐのところにあり、住宅街に溶け込むような雰囲気が気になっていたが、建物の中に入ってみてその美しさに感動。それと言うのも、舞台が屋外に建っているのである。しかも、国立能楽堂や観世能楽堂のような劇場風建物と違い、古風でいかにも本物の舞台そのものといった佇まいである。頂戴した説明書にも『大正・昭和初期、都内に数ヶ所存在していた屋敷内舞台の現今では数少ない遺構の一つ』とある。

 オープニングは代々木果迢会を主宰する浅見真高氏の小謡であったが、ご高齢にもかかわらない凛とした立ち姿や声に感心してしまった。いかにも長い年月修行を積んで来たその道の達人といった風情。 

 この日の演目は世阿弥の『西行桜』。私も西行が好きで一昨年は西行庵と西行桜を訪ねる旅に出たが、能の“西行桜”を観るのは初めてである。
物語は、西行の庵室の前に名木の桜があり、この桜目当てに大勢の花見客が訪れる。西行は世捨て人になっても俗世と離れられない煩わしさを嘆き「花見にと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の科にはありける」と詠んでまどろんでしまう。その夢の中に桜の老木の精が現れ、それは桜の責任ではないと説き、京の桜の美しさを語って舞って消えてしまう。西行がふと目覚めるとそこには老木の桜がひそやかに立っているのであった。・・といった内容である。桜を愛し桜が咲く地に庵を構えた西行に相応しい物語だ。
 久しぶりの能であったが、こんな贅沢な雰囲気の中で味わうことができ、感謝に堪えない。(山下)



イェイツのこと、アイルランドのこと[6]

2012年07月06日 | 東西の詩人詠みくらべ
アイルランドはカトリックの国である。第二次世界大戦後の1949年になってやっと独立を果たしたが、何世紀にもわたる屈辱的支配を忘れることなく、いまだに、プロテスタント(英国国教会)の英国への反発は根強い。イェイツはダブリン生まれの“アングロ・アイリッシュ”である。“アングロ・アイリッシュ”とは英国の植民地時代にこの地に移住した支配階級の子孫である。つまり、イェイツの家系は古い時代からアイルランドに居住した“古き英国人”(オールドイングリッシュ)であるが、長い年月の中で、自らをアイルランド人と位置づけ、地元民以上のアイルランド愛国者になったということができる。

イェイツは、幼少時を過ごしたスライゴーの自然と、後半人生での詩作の地であるクール地方の湖や塔をこよなく愛し、これらアイルランドの原風景の中から多くの詩や戯曲を制作し、祖国の文芸復興にも尽力した。この地に古くから伝わる伝承をもとに、ケルトの妖精物語を作り、日本の能にも関心を寄せた。作品は神秘主義的なところもあり、いささか難解であるが、心惹かれる詩人・劇作家である。

そんな訳で、このところ、イェイツのことが頭から離れなかったのであるが、年が明けてテレビを見ていたら、またイェイツが登場した。アンソニー・ホプキンスのトーク番組である。これには驚いた。しかも、なかなか感動的なシーンであった。アンソニー・ホプキンスは、アカデミー賞に輝いた『羊たちの沈黙』や貴族の館の執事のストイックな人生を描いた『日の名残り』など、数々の作品における名演技で評価の高い英国の名優である。言うまでもなく、私の好きな俳優の一人でもある。これは米国アクターズ・スタジオが主催する俳優・監督のトーク番組であるが、ジェームズ・リプトンのインタビューが絶妙で、人気が高い。この番組にアンソニー・ホプキンスが出演するというので、楽しみに観ていたのだが、「詩が好きだ」との会話があり、突然、イェイツの話になったので、驚いてしまった。リプトンから「母親の旧姓は?」と聞かれ、「イェイツ」と答えたのだ。祖父の家系が関係あるとのこと。そして、促がされて、詩を朗読し始めた。「イニスフリーの島へ行こう、土と編み枝で家を建てよう、豆を植えミツバチの巣箱を作り、一人暮らそう、・・・」と。そう、なんと、『イニスフリーの島』であったのだ。しかも、ホプキンスは、朗読の途中、感極まって涙する。大勢の聴衆に「すまない」と照れ笑いするが、会場からは割れんばかりの拍手、感動的なシーンであった。クリント・イーストウッドといい、アンソニー・ホプキンスといい、ジョン・フォードといい、私が好きな俳優や監督たちが、こんなにもイェイツを好きとは、・・嬉しいことである。

最後になるが、私は中国東晋時代の田園詩人陶淵明も好きである。不思議なことだが、イェイツがアイルランドへの思いから詠んだ詩『イニスフリーの瑚島』と、陶淵明が故郷の田園を思い浮かべながら賦した『帰去来の辞』に流れる心情はとてもよく似ている、と思う。都会ロンドンにはないアイルランドの自然やケルトの文化に憧れたイェイツと、役人生活に嫌気がさし、故郷をめざした陶淵明、偶々好きなこの二人の詩人に共通して流れるものを、私は感じる。なんと幸せなことだろう。(山下)



イェイツのこと、アイルランドのこと[5]

2012年07月05日 | 東西の詩人詠みくらべ
 そう言えば、マーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』の女主人公スカーレット・オハラもアイルランド系である。この映画のラストシーンのセリフ「タラに帰ろう」は印象的で、心に残る。南北戦争で、屋敷も財産も家族も愛する男も全てを失った主人公スカーレットが、アトランタの故郷タラで再び立ち上がろうとする感動的な場面でのセリフであるが、このタラの名がアイルランドにある“タラの丘”に由来していることを知る人は少ないのではなかろうか。“タラの丘”とは、首都ダブリンの北西40キロの地にある丘陵のことで、ここは、5世紀の頃、アイルランドにカトリックをもたらした守護聖人セント・パトリックが、三位一体を象徴する“三つ葉のクローバー”を手にカトリック信仰を説いた場所であり、“ケルト人の聖地”である。作者マーガレット・ミッチェル自身も19世紀の移民の家系であり、この物語に流れているのは、誇らしきアイルランド精神そのものといっていい。アメリカ南部の貴族社会が、南北戦争という“風”と共に、今、まさに、消え去ろうとする中で、アイルランド的な不屈の女主人公スカーレットがケルトの聖地に再生を誓う物語なのであろう。

ハリウッド映画全盛時代、『駅馬車』など、数々の西部劇を世に放った映画監督ジョン・フォードもアイルランド移民の子孫である。その代表作の一つ『静かなる男』はアイルランド人気質の男たちを主人公とした名作であるが、その舞台はダブリンから遥か西の太平洋側のごつごつした岩肌の荒涼とした大地のゴールウェイ近辺である。ここはジョン・フォードの祖先の故郷であり、彼はロケ地のコング村を“イニスフリー”と命名したのだ。嬉しいではないか、やはりイェイツが好きだったに違いない。この映画は、ジョン・ウェイン演じる元ボクサーの主人公ショーンが、故郷アイルランドの村に帰って来るという物語設定であるが、登場するのは、底抜けにお人好しで無鉄砲、意固地で協調性に乏しく、酒飲みで喧嘩好き等々、アイルランド魂の愛すべき男たちである。いや、男たちばかりではない、恋人役を演じる女優モーリン・オハラもアイルランド人であり、気性の強いアイリッシュ女を見事に演じていた。言うまでもないが、ジョン・フォード監督自身もこれらアイリッシュ気質そのもののような男っぽい人物であった。(山下)

イェイツのこと、アイルランドのこと[4]

2012年07月04日 | 東西の詩人詠みくらべ
 私はもともとアイルランドという国に惹かれるところがある。ケルト系の音楽も好きだし、アイリッシュ・ウィスキーもギネス・ビールもこよなく愛す。そもそも、アイルランドは紀元前よりケルト人が独自の文化を継承してきた国であるが、12世紀以降800年近く英国に支配されてきた。特に17世紀、清教徒革命の指導者クロムウェルによる侵略は、カトリック教会の破壊など残虐極まりないもので、アイルランド人は東部の肥沃な土地を収奪され、大西洋側の岩と泥炭むき出しの荒涼とした地に移住させられた。多くの人々は小作人としての奴隷的生活を余儀なくされ、痩せた土地にも生息するジャガイモを主食として辛うじて生きてきた。しかも、19世紀半ば、このジャガイモに疫病が蔓延するいわゆる“ジャガイモ大飢饉”が起きて百万人が死亡、多くのアイルランド人がアメリカに移住して行ったのである。後に米国の大統領になるジョン・F・ケネディの祖先もジャガイモ農家であったが、この時期、アメリカに移住したアイルランド移民である。こうした移民の結果、現在アメリカに在住するアイルランド系の数は、本国の人口の何倍にもなるという。しかし、建国以来の民族であるアングロサクソンはアイルランド人を軽く見て、米国における地位は低いままである。

 司馬遼太郎は、その著書『街道を行く・愛蘭土紀行』の中で、「アイルランド人は、客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だと思っている。」と書いている。そのくらい、アイルランドの歴史にはいいところがない。しかし、“負け続けていながら、そう思ってはいない”という、この表現がおもしろい。司馬遼太郎は、これはケルトの時代から受け継がれてきた“アイルランド人の自己に対するしたたかな崇拝心”によるものであろうと書いている。(山下)


イェイツのこと、アイルランドのこと[3]

2012年07月03日 | 東西の詩人詠みくらべ
 コーエン兄弟の『ノー・カントリー』も好きな映画の一つである。ブログに掲載した私の雑文を見た友人から電話があり、「ご存知でしたか。この映画のタイトルもイェイツの詩の引用なんですよ」とのこと。そうだったのか、コーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』を原作にしたこの映画は色んなことを考えさせる衝撃作であるが、イェイツの詩とは知らなかった。以下は、この時ブログに掲載した雑文の一節である。

・・《この映画の原題は『NO COUNTRY FOR MEN』であり、イェイツの詩『ビザンチウムへの船出』の冒頭からの引用である。
    『それは老いたる者たちの国ではない。
     恋人の腕に抱かれし若者たち
     樹上の鳥たち
     その歌と共に、死にゆく若者たち
     鮭が遡る滝も、鯖にあふれた海も
     魚も、肉も、鶏も、長き夏を神に委ね
命を得た者は皆、生まれ、また死ぬのだ。』
ビザンチウムとは現在のイスタンブール、詩人はここを永遠のユートピアと見たのであろう。“命を得た者は皆、生まれ、また死ぬのだ”、ここには無常な現実を生きながら、死への旅立ちを静かに夢想するイェイツのロマンが漂う。・・そう、死は単なる死ではなく、めくるめく永遠の生への船出なのだ。》・・

 クリント・イーストウッドの監督作品『マディンソン郡の橋』にも、イェイツの詩が登場する。これはアイオワ州マディソン郡にある小さな橋を舞台にした、大人の男と女の物語であるが、メリル・ストリープ演じる女主人公が好きな詩が、イェイツの『さまよえるアンガスの歌』であった。これは、ある男が一匹の魚を釣りあげたところ、その魚が美しい女性に変身し、そして消え去るといったロマンチックな詩である。
   「蛾に似て星のまたたけば、・・・時の滅ぶまで摘みとらん、
月の銀の林檎を、 陽の黄金の林檎を・・・」   
(山下)

イェイツのこと、アイルランドのこと[2]

2012年07月02日 | 東西の詩人詠みくらべ
 私は以前、この映画について雑文を書いたことがあるが、以下は、そのさわりである。
・・《 私はフランキーが読んでいたゲール語の詩集のことが気にかかり、映画を見た後、イェイツの書を探しに出かけることとした。そして見つけたのが、加島祥造訳『イェイツ詩集』である。この詩の原題は『The Lake Isle of Innisfree(イニスフリーの瑚島』であり、都会ロンドンで暮らす詩人が故郷への思いを込めて作った詩である。
『I will arise and go now、and go to Innisfree,
And a small cabin build there, of clay and wattles made
    ああ、明日にでも行こう、あの島へ、
    そして、あそこに小屋を建てよう。
    ・・・・(中略)・・・
    ああ、あそこなら、いつかは心も安らぐだろう。
安らぎは、ゆっくりくるだろう・・・・(中略)・・・』

ここにイェイツが思い描いたのは、詩人が夢見た安息の地なのであろう。しみじみとした、いい詩である。この重い物語の救いと希望はこの詩の中にある気がする。罪の意識を背負った“許されざる者”フランキーは、その後行方がわからなくなるのであるが、今もこの島の何処かで暮らしているに違いない。》・・


そんな訳で、これらのことをブログに書いたのであるが、このところ、イェイツのことが妙に心に引っかかる。旅をしても、例えば、昨年10月、仕事でサンフランシスコに出かけた折も、アイリッシュ・パブの店内に入るなり、壁に掛けられたイェイツの肖像写真が目に飛び込んできた。ニューヨークにも毎年出かけるが、5番街のゴシック建築が美しいセント・パトリック教会を見ると、アイルランドのことを思い出すのである。(山下)


イェイツのこと、アイルランドのこと[1]

2012年07月01日 | 東西の詩人詠みくらべ
 私はアイルランドの詩人ウイリアム・バトラー・イェイツが好きだ。不思議なことに、ブログにイェイツのことを書いて以来、イェイツを思い出させる小さな出来事が続いている。昨年春のこと、コンサルタントを引き受けている米国IT企業のマーケティング部門のトップが来日、夜の会食会の前に、アイリッシュ・パブで紹介された。早速、ギネスビールで乾杯、「ご出身は?」と聞くと、アイルランドとのこと。とっさに詩人イェイツを思い出し、アイルランドに“イニスフリー”という名の島はあるかと尋ねた。彼は、ほとんどの日本人はアイルランドというと、ダブリンとギネスビールのことしか話題がないのに・・・、と感激、その場で、アイリッシュデザインのTシャツを購入、プレゼントしてくれた。嬉しいではないか。そして、彼と私は、暫しの時間、仕事の話など脇において、アイルランドとイェイツについて語り合ったのである。

 『イニスフリー』とはアイルランドのある湖に浮かぶ小さな島の名である。実在する島かどうか、私は知らない。その名を知ったのは、アイルランドの詩人イェイツの詩『イニスフリーの島』においてであった。その後、イェイツのことを調べていてわかったのだが、イニスフリーとは、少年時代に過ごした母親の故郷スライゴーにある湖に浮かぶ小島のことで、名づけたのはイェイツである。ロンドンで暮らすイェイツが、都会生活に疲れた時、思い巡らしたのが、豊かな自然に溢れた故郷アイルランドであった。

この詩は、数年前、作品賞・監督賞など主要なアカデミー賞を総ナメしたクリント・イーストウッドの監督作品『ミリオンダラー・ベイビー』でも使われていたが、印象的であった。この映画は、イーストウッド演じる、裏町でボクシングジムを経営するトレーナーのフランキー・ダンとアイルランド出身のボクサー志望の女主人公マギー・フィッツジェラルドとの物語であるが、試合中、挑戦相手の反則により半身不随の障害を受ける彼女を尊厳死させることになる重い物語である。このフランキーがいつも携えているのがゲール語の詩集であるが、物語の後半、病床で身動きできないマギーに、この詩を読んで聞かせるシーンは心に沁みる。フランキーは、慈愛に満ちた表情で、「君も小屋で暮らしたい?」
とたずね、マギーは「私はレモンパイを作るわ」と答えるのであった。(山下)


アンソニーホプキンス、イエイツの『イニスフリーの島』を語る

2011年01月26日 | 東西の詩人詠みくらべ
 昨年より、このブログに好きな詩人イェイツについて何回か雑文を書いたが、年が明けてテレビを見ていたら、またイェイツが登場した。アンソニー・ホプキンスのトーク番組である。これには驚いた。しかも、なかなか感動的なシーンであった。アンソニー・ホプキンスは、アカデミー賞に輝いた『羊たちの沈黙』や侯爵に仕える執事のストイックな人生を描いた『日の名残り』など、数々の作品における演技で評価の高い英国の名優である。言うまでもなく、私の好きな俳優の一人である。

 これはアクターズスタジオが主催する俳優・監督のトーク番組であるが、司会者ジェームズ・リプトンのインタビューが絶妙で、人気が高い。この番組にアンソニー・ホプキンスが出演するというので、楽しみに見ていたのだが、「詩が好きだ」の会話が流れた後、突然、イェイツの話になったので、驚いた。リプトンから「母親の姓は?」と聞かれ、「イェイツ」と答えたのだ。祖父の家系が関係あるとのこと。そして、詩を朗読し始めた。《・・・イニスフリーの島へ行こう。土と編み枝で家を建てよう、豆を植えミツバチの巣箱を作り、一人暮らそう、・・・》と。なんと、『イニスフリーの湖島』であった。しかも、朗読の途中、ホプキンスは感極まったとみえ、涙をにじませたのである。本人は「すまない」と拳で目頭を押さえながら照れ笑いしたが、会場からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。感動的なシーンであった。

 クリント・イーストウッドといい、アンソニー・ホプキンスといい、私が好きな俳優・監督たちが、こんなにもイェイツを好きであったとは、・・感激である。(山下)


アイルランドの詩人イエィツのケルト創作能『鷹の井戸』のこと

2010年10月29日 | 東西の詩人詠みくらべ

 アイルランドの詩人イエイツはケルトの神話や伝説などにも造詣が深く、神秘的な一面を持っていたが、日本の能にも深い関心を持ち、創作能『鷹の井戸』を書いている。

 イエィツの能への関心はフェノロサまで遡ることになる。フェノロサは日本で能楽について研究するが、その死後、夫人が能に関する研究草稿を米国の詩人エズラ・バウンドに届けるのだが、バウンドと親交のあったイエィツは能のことを聞き、おおいなる興味を抱いた。こうして、能の研究をはじめるのだが、『鷹の井戸』を書いて、1917年に出版、その際、ロンドンで上演することになったのである。このケルト能はその後、横道満里雄による翻案新能『鷹の泉』として日本的に完成して行くのだが、そのきっかけを作ったイエィツは凄い詩人である。

 イエィツが書いた『鷹の井戸』の物語とは、・・・ケルトの若き英雄が永遠の泉を求めて、ある井戸に辿りつくのだが、この井戸は滅多に水が湧くことはないという。ところが、そこで井戸を守っていた女が突然激しく鷹の声をあげて震え始め、ついには鷹となって舞いをはじめる。傍らにいた老人がそれを見て、これは水が湧く前兆だという。・・・・・・。そんな不思議な物語だ。(山下)

セントパトリック・デイ、詩人イェーツの話題で盛り上がる

2010年06月20日 | 東西の詩人詠みくらべ
 コンサルタントを引き受けている米国IT企業のB・D氏宛て、以前頂戴したアイリッシュパブのTシャツへの英文の礼状を書いた。・・・・・

 今年3月のことであるが、このIT企業のマーケティング部門責任者B・D氏が来日、彼を囲んでの和食の会食会があった。この席には日本法人のカントリーマネージャーJ・B氏等が参加したのだが、会食会の前にビールで乾杯しようということになり、アイリッシュパブに繰り出した。ここでB・D氏を紹介され、初対面の挨拶をした。がっちりした体格に優しい顔立ちのジェントルマンである。活動の本拠地はサンフランシスコのシリコンバレーにある米国本部だが、出身はアイルランドとのこと。アイリッシュパブでのビールは、そんな歓迎の意味が込められていたのだが、この日(米国時間3月17日)はセント・パトリック・デイと呼ばれ、アイルランドやアメリカでは国家の祝祭日にもなっているのだそうだ。

 アイルランドと聞いて、私はとっさにアイルランドの代表的詩人イエーツとその詩『イニスフリーの島』のことを思い出した。早速そのことを話したところ、B・D氏は、日本人がアイルランドについて語るのはダブリンとギネスビール程度だと冗談を言いながら、とても喜んでくれた。ウイリアム・バトラー・イェーツはアイルランドの詩人・劇作家で『薄明かりの中へ』などの作品がある。私の好きな詩人のひとりである。

 B・D氏と小生の会話は通訳を交えたものであったが、言葉は十分通じなくても、こういう文化というか心に残る話は共感し合えるということなのであろう。B・D氏は私との会話を喜んでくれたと見え、早速アイリッシュパブのTシャツをプレゼントしてくれた。嬉しいね。・・・そう、本日書いたお礼状というのは、このTシャツのことであった。(山下)


米国IT企業役員B・D氏を囲んで


中国東晋時代の詩人、陶淵明のこと

2007年01月20日 | 東西の詩人詠みくらべ
 神田の某画廊が主宰する会では、小冊子を発行している。その原稿の締め切りが近づいて来た。 何を書こうかと考えているうちに、陶淵明のことを思い出した。陶淵明は中国東晋時代の詩人である。41歳の時役人生活に嫌気がさし、職を辞して故郷に帰り、隠遁生活を送った。私は若い頃から漢詩、とりわけこの陶淵明が好きで、一杯飲んだ時など彼の詩の一節を吟じたりしていた。「庵を結んで人境にあり・・・」などと。その小生、数年前に妻を亡くしたり、昨年はみずからも癌の診断を受けるなど、このところ人生の無常を思うことが多いのだが、そんな訳で若い頃吟じた陶淵明の詩に感じ入ることが多くなったのかもしれない。

 陶淵明は自然の中にこそ真理ありとの宇宙観を持った詩人であるが、無為自然の老荘思想の影響を受け、自然に身を任せて人生を生きた。願わくば小生も、人生の無常をあるがまま受け入れ生きたいものである。

*我が書斎の書棚に残る40年以上前の『古文真宝選』他