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桜の季節になると、西行終焉の地、河内の弘川寺の山桜を思い出す

2016年04月16日 | 東西の詩人詠みくらべ
 桜の季節になると西行を思い出す。毎年似たような雑文を書いているが、そのくらい西行のことが好きということか・・・。

 何年か前、西行終焉の地、大阪河内の弘川寺を訪ねた。弘川寺は奈良・葛城山の麓にあり、天智天皇の時代に開創された寺である。西行は桜が好きだったとみえ、あちこち桜の花が美しい地に庵を構えたが、晩年はこの寺の座主空寂上人を慕って訪ね、ここで暫らく暮らしたようだ。しかし、翌年の文治6年2月に没した。あの歌、『願わくは花のもとにて春死なむ・・』のとおり、きさらぎの16日のことであった。これはお釈迦さまが入滅した日へのあこがれを詠んだ歌であり、その望んだ時期に亡くなったので人々はおおいに驚いた。



 弘川寺の本堂の右手の山桜咲きこぼれる小道を進むと、西行座像を祀る「西行堂」があり「西行墳」がある。そうか、西行の墓はここにあったのだ。墓の手前の歌碑には、『願わくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃』の歌が刻まれている。脇には『仏には桜の花を奉れ わが後の世を人とぶらはば』の歌碑もある。この時、小生、感無量であった。

「願わくは・・」の歌碑の前で

 西行は平安時代末期の歌人であり、鳥羽上皇の警護にあたる北面武士であった。23歳の時、突然出家するのだが、その理由はよくわからない。しかし、この弘川寺の桜山を散策しながら、ふと、出家するしかなかったであろう、やみにやまれぬ思いがわかる気がした。西行墳より東方の小高い山には、たくさんの山桜が咲き誇り、薄桃色の花が満開であった。私は、西行の庵跡のある桜山を歩きながら、妻子を捨て、ただ一人旅をつづけた西行の人生に思いを馳せた。

≪その他、西行の歌を二つ≫

①出家するに当たって詠んだ歌・・・『惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ』

②桜の美しい地に庵を構えて詠んだ歌・・・『とふ人も思い絶えたる山里は さびしさなくば住み憂からまし』

  webより借用