TAOコンサル『市民派・リベラルアーツ』

「エッセイ夏炉冬扇独り言」
「歴史に学ぶ人間学」
「僕流ニュースの見方」
「我が愛する映画たち」

フィリアホールで聞く、バッハの『クリスマス・オラトリオ』

2010年04月17日 | 酔って吟じたあの一篇
 青葉台で、ちょっとキュートなレディーTさんととランチ、藤沢周平の『花のあと』のことなど語り合う。この日はフィリアホールのコンサートに誘われているというので、送って行ったところ、お仲間のご婦人T・Sさんから入場券を頂戴することになり、有難くご一緒させていただいた。ご主人がPMS合唱団の一員で、この演奏会に出演しているのだそうだ。演目はバッハの『クリスマス・オラトリオ』。そう、本格的な演奏会だ。・・小生の出で立ちはジーンズにライダースジャケット、こんな格好でいいのかな(笑)。

 オラトリオというと、ヘンデルの『オラトリオ』を思い出すが、この『クリスマス・オラトリオ』はバッハによるもの。歌詞は新約聖書のルカによる福音書第2章1節~21節と、マタイによる福音書第2章1節~12節をベースに、マルティン・ルターのクリスマス讃美歌などが加えられているのだという。曲は第一部から六部、全編にわたりキリストの降誕を讃える荘厳なもので、久しぶりに格調高い音楽に包まれたひとときであった。そして、あらためて合唱の素晴らしさに感動してしまった。

 演奏はグロリア室内オーケストラとPMS合唱団。PMS合唱団(主宰松村努)はヘンデルのオラトリオ『メサイア』全曲を演奏するために発足したグループであったのだそうだ。亡き妻が若い頃、オルガニスト奥田耕天率いる合唱団『オラトリオ』のメンバーとして『メサイア』を歌っていたことなど、思いだす。

 思いがけず、格調高い演奏と合唱に包まれた至福のひとときを持つことができた。感謝!


合唱団中央付近に首藤孝雄氏                        

教会コンサートで聞くバッハのコラール『いと高き神にのみ・・・』

2010年04月16日 | 酔って吟じたあの一篇
 先輩でもある渋谷教会の役員林言彦氏からイースターコンサートの入場券が送られてきた。前回の演奏会がとてもよかったので喜んで出かけることにした。このコンサート、とても教会の礼拝堂でのものとは思えないレベルの高いものである。

 この日はバリトン歌手の青戸知、ソプラノ歌手の一小路千花、そしてオルガンの増田基子が加わっての演奏会であった。曲目はバッハのコラールやカンタータ、ヘンデルのメサイア、メンデルスゾーンのソナタ、或いは北原白秋の『この道』など馴染み深いものを含め10数曲であった。

 私の好きなバッハのコラール前奏曲、『いと高き神にのみ栄光あれ』や、カンタータ、『主の望みの喜びよ』の他、亡き妻が若い頃コーラスで歌っていたヘンデルの『メサイア』などもあり、心に沁みる演奏であった。

 ほんの目の前で聞く青戸知と一小路千花の声は素晴らしい。こんな贅沢な機会は滅多にないであろう。青戸知は声量もあり、ユーモアある語りもいい。そして、増田基子のオルガン演奏が荘厳な雰囲気を漂わせて、感激であった。


青戸知(右)、一小路千花(左)


オルガニスト増田基子



山桜咲きこぼれる西行終焉の地、弘川寺を訪ねる

2010年04月09日 | 酔って吟じたあの一篇
 今回の旅の目的は西行終焉の地、河内の弘川寺を訪ねることにあった。弘川寺は葛城山の麓にあり、天智天皇の時代に開創された寺である。西行はその晩年の文治5年、当時の座主空寂上人を慕ってこの寺に住み、翌年の文治6年2月に没した。あの歌、『願わくは花のもとにて春死なむ・・』のとおり、きさらぎの16日のことであった。

 弘川寺の本堂の右手の山桜咲きこぼれる小道をしばらく進むと、西行座像を祀る「西行堂」があり、「西行墳」がある。・・そう、西行の墓はここにあったのだ。墓の手前の歌碑に、『願わくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃』の歌が刻まれている。そして、脇には、『仏には桜の花を奉れ わが後の世を人とぶらはば』とある。・・・小生、感無量であった。

 この西行墳より東方の小高い山には、あちこちにたくさんの山桜があり、薄桃色の花が今まさに満開であった。私は、西行の庵跡のある桜山を歩きながら、妻子を捨て、ただ一人旅をつづけた西行の人生に思いを馳せた。

 西行は平安時代末期の歌人である。本名は佐藤義清、鳥羽上皇の警護にあたる北面武士であったが、23歳の時、突然出家した。出家の原因はよくわからない。しかし、この弘川寺の西行の桜山を散策しながら、ふと、出家するしかなかったであろう、やみにやまれぬ西行の思いがわかる気がした。

西行の歌を二つ

①出家するに当たって詠んだ歌

     ・・・『惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ』

②50年にわたって旅をし、桜の美しい地に庵を構えたが、

     ・・・『とふ人も思い絶えたる山里は さびしさなくば住み憂からまし』


西行の墓


西行歌碑「願わくは花のもとにて春死なむ・・」の前で


西行庵近くの山桜



司馬遼太郎記念館にて、暫し思索の時を

2010年04月09日 | 司馬遼太郎と藤沢周平
 司馬遼太郎の記念館は近鉄奈良線の河内界隈にある。生前愛用していた書斎は雑木林に囲まれ、周囲は自然の佇まいそのものといった雰囲気であるが、隣の記念館は安藤忠雄設計によるモダンな建築である。地下に大きな書架があり、何万冊なのか、凄い量の蔵書である。一つの作品を書くたびに、関連する書籍・資料を何十冊も読みこなし、足で歩いて現地取材をしたのであろう。さすが大きなことを成す人は凡人とは違うものだと、あらためて感服してしまった。

 私も若い頃、『竜馬が行く』や『坂の上の雲』を読み、感動したものである。しかし、サラリーマン生活を終えた今、個人的には、市井の人々の人生を描く藤沢周平に惹かれる。歴史を作って来たのは、時代の先端を走った一部の英雄たちではなく、無名の男たちなのだということを、この年になって悟ったということかも知れない。しかし、司馬遼太郎が現代の日本人に、明治という時代を生きた男たちの国を思う心とその生きざまを語った意味はとてつもなく大きく、その業績は歴史に残るであろう。

 記念館の自由メモ帳を拾い読みした。我々世代がそうであったように、現代の若者たちがここで何かを感じ、明日へのエネルギーにしようとする様子は嬉しいものだ。・・・・下記文章はその一つ。司馬遼太郎への尊敬の念と自らの人生への夢を感じさせ、“ああ、こういう若者が大勢いるのなら日本も捨てたものではない”と感じ入った次第である。

 ・・・「司馬先生、僕は神戸の大学に通っており、4月に社会に出ます。司馬先生が見て、また、坂本龍馬をはじめとする日本を築いてきた英雄たちに対して恥ずかしくない“日本人”になりたいと思い、行動して行きます。自分に厳しく、この腐った国を変えます。」2010、2,7 S.M  
(山下)


雑木林に囲まれる司馬遼太郎の書斎


司馬遼太郎記念館エントランス

明治維新を駆け抜けた男、坂本龍馬の墓と寺田屋

2010年04月09日 | 時代を駆け抜けた男たち
 今年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』は面白い、名もない土佐の脱藩浪人龍馬が成長して行く姿を岩崎弥太郎の視点から描いている。脚本がいいのだろう、見応えある。

高度成長時代を生きたサラリーマンの多くは、司馬遼太郎の『竜馬が行く』を読んで、頑張ってきたのではなかろうか。自分も龍馬のように時代を変える男になりたいと思ったに違いない・・このエネルギーがあの高度経済成長を支えてきたのだ!小生も『竜馬が行く』を読んで、惚れこんだものだ。

 その龍馬の墓が、東山霊山の麓の護国神社にある。ここには桂小五郎や蛤御門の変の久坂玄端、天誅組の吉村寅太郎など多くの志士たちを祀っている。近江屋で暗殺された坂本龍馬も、中岡慎太郎と共にここに眠る。龍馬33歳のことであった。薩長同盟を成立させ、海援隊を組織し、船中八策を考案するなど、近代日本の礎を築いた。暗殺されたのは1866年、大政奉還の前年のことであった。

 私たちはこの後、維新の歴史舞台である京都伏見に向かい、寺田屋を見学した。ここは龍馬が好んで宿泊した宿である。女将お登勢は龍馬など多くの志士たちを助けたことで知られている。寺田屋は大阪と京都を結ぶ三十石船の京都側発着地に大きな船着き場を持つ船宿である。この界隈には、今も船着き場が残り、江戸や維新の時代を偲ばせる。


東山の維新の道の枝垂れ桜


坂本龍馬と中岡慎太郎の像


伏見にある寺田屋の内部