TAOコンサル『市民派・リベラルアーツ』

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今注目される“従順ならざる唯一の日本人”白洲次郎のこと

2009年03月01日 | 時代を駆け抜けた男たち
 NHKドラマスペシャル『白洲次郎』が始った。こういう人物が注目されるというのはいいことである。政治の世界も実業の世界も、自己の利益と保身にのみ汲汲とする男たちばかりで、情けない。男には誇りと品格が必要と思うが、白洲次郎はまさにそういう人物であったと思うのである。

 白洲次郎は棉貿易で財を成した富豪の御曹司で、1920年代の英国に留学し、ケンブリッジで学んだ。欧州の名車ブカッティやベントレー1924を乗り回し、イギリス流ジェントルマンの生き方を学んだ。帰国後、樺山家令嬢の白洲正子と結婚、戦後は首相吉田茂の懐刀として、GHQとの交渉に当たった。GHQに対して卑屈な政治家・官僚ばかりの中にあって、一人筋を通し、一歩も引かなかったという。

 昭和20年のクリスマスのこと、天皇陛下の贈り物を持ってマッカーサーを訪ねたところ、「適当にその辺に置いといてくれ」と言われ、「その辺に・・・・」とは何事だと、怒りを爆発させた。マッカーサーも、長身に正統派イングリッシュでまくしたてる、日本人離れした白洲に驚き、以来、GHQから“従順ならざる唯一の日本人”と一目置かれたという。

 逸話をもう一つ。昭和26年8月31日、サンフランシスコ講和条約締結に特別顧問として同行した時のこと、吉田首相から官僚が書いた英文の演説原稿を見せられた白洲は、一読するなり、こんなアメリカに迎合したような文章では駄目です、「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」・・・と、一晩かけて、この原稿を日本語で書き直したという。

 白洲次郎の生き方は日本的曖昧さとは対極にあり、自らの信条を自信を持って明らかにするといった、西欧的規範を身につけた稀有な日本人であった。混沌とした国際情勢のなかにあって、今こそ白洲次郎のような気概ある人物の出現が待たれるのである。

・・・白洲次郎の遺言は、“葬式無用、戒名不要”の一言であったという。(山下) 



撮影・・濱谷浩氏