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「ジェンダー入門」(加藤秀一)に見る同性愛へのまなざし

2006年12月01日 02時56分30秒 | セクシュアリティ雑感
加藤秀一著の「ジェンダー入門」を読みました。とりあえず同性愛について語っている部分について書いてみます。

本書には同性愛の科学について言及があるのですが、アナクロニズムとしかいいようのない本質主義批判をなさっている本でございます。

つまりは、いつものヘタレ科学批判。
「科学的に同性愛の原因をさぐっていって、もし本当に分かったりしたら、出生前の遺伝子診断やら堕胎やらで同性愛者はいなくなってしまうんだぞ! そんなのヤダ!」ってやつ。

まず原因はそう簡単ではないので、それなりの精度で生まれてくる子どものセクシュアリティを当てるのは当分無理でしょう。たとえ精度が上がったとしても、おそらく1つの原因で同性愛者が生まれているとは思えないので、「これと、これと、この要因はもっていらっしゃるから、同性愛者になる確率は30%程度でしょう」ということが分かるようになる。そのときにそれを理由に堕胎をするなんてことは許されないだろう。そっちの倫理を考えていただきたい。堕胎がどの程度ゆるされるべきなのか、優性思想へとつながらないような方向性を模索するべきなのだ。

それから第二に、同性愛の原因がはっきりしたとして、それを治せるようになったときに、治したいと思う人がその治療に伴うリスクと効果を知って、インフォームド・コンセントが成立した上で治したりする分には、一向に構わないんじゃないかと思います。まあ、当分は無理だけど。

 ところで、アカデミズムになじみのない同性愛者たちは、素朴に科学や本質主義を活用していただいております。日ごろのご愛顧まことにありがとうございます。
 たとえば都城の条例改正問題のときに、「自分は同性愛を選んだわけではない。自然とそうなったんだ」という声を当事者の多くがあげた事実を鑑みるに、おそらく科学による「自己責任からの解放戦略」を取りたい人が同性愛者の中では多数派なんだろう。
 科学が本質的な原因があることをいつの日か証明した暁には、「同性愛を自分で選んでおいて文句を言うな」といわれることはなくなる。自分で責任を取る能力がないことになると、そこに「罪」を問えないのは、刑法に取り入れられた考えと同じですね。
 
 さて、本質主義に依拠するこちらの戦略をとったときの問題点として加藤さんが挙げているのは、同性愛を自己選択した人を擁護しないということ。ですが、まずそういう人は非常に少ないんじゃないかと思う。レズビアンではいるかもしれないけど。
 もっと科学的には「現在のところ生物学的な原因が分からない」という言い方はできるけれども、「生物学的な原因はない」というのは極めて難しいことです。これはほぼ永遠に不可能だということ。人類が思いつく原因だけじゃない可能性があり、究極的には神のみぞ知る世界です。 人類が思いついた原因を列挙しても、それまでに人類が思いつかない、あるいはそこまでの技術では証明不可能な原因が隠れているかもしれません。その可能性がありえなくなるというのは、ほぼ永遠に不可能でしょう。
 逆に言うと、同性愛に生物学的な根拠があるとしても、それを科学が証明してくれるまで待っているよりは、とっとと「基本的人権」に基づいて権利保障をする道を歩みだしたほうがよい。アメリカばかりみてないでヨーロッパを見習いましょう。

 遺伝子にしろ、出生順にしろ、証明は難しいけれど、いくつかのセクシュアリティに影響を与えている可能性が高い(ということはそれだけで決定しているわけではない)要因はでてきています。そういったことが複雑にからみあって、ある人のセクシュアリティを決めているのでしょう。そういう欲望や感情の生物学的基盤に基づいて、自分の実存にぴったりくるアイデンティティをみんな選択していくわけです。感情は遺伝の影響下にありますが、アイデンティティは自己選択であることには違いありません。科学はアイデンティティの本質主義を証明することは出来ないでしょう。科学に出来るのはたかだか、そのアイデンティティを選択せざるをえなかった人の欲求や感情に生物学的な基礎が横たわっていることだけです。

 さらに加藤さんは同性愛を科学的に調べるときに「操作的な定義」が使われているけれども、それでは輪郭がはっきりしないといいます。「操作的な定義」っていうのは、だいたいの研究で「同性愛者集まれ!」とゲイ雑誌やなんかで呼びかけて、それに応募してくる人ということで、厳密な基準ではないということです。そりゃあ若い子や男だけで隔離された状態の人が性欲の噴出に戸惑って、同性とセックスをすることくらいはあるだろうけど、基本的には「欲望」が同性に向かっているからこそ、そういう行動をとると考えるほうが自然じゃない? ただレズビアンはゲイよりセクシュアリティが複雑な感じはあります。
 そこで、一定の傾向が見つかればよいわけで、「操作的な定義」だから科学的に意味はないということにはならない。

 さて、加藤さんの方向ではいくつかの問題がでてくるでしょう。まず同性愛の根幹を、ヘタレな理由で研究しちゃいかんなんていうのは、「人のセクシュアリティはなぜこうも多様なのか?」という純粋科学的な問いをないがしろにしてしまう。同性愛者の当事者からすると、「自分はなんでこんなふうになったんだろう?」という自然と湧き上がってくる問いを問うてはいけないということだ。それは学者として、いかがなものだろうか?
 それから、科学的な証明には時間がかかります(厳密だし、ヒトでは「実験」はできないから)。そんな先のことを心配するよりは、科学でも何でも活用して、できるところから権利拡大を目指すことなんです。

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