特集:SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012
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親子に関する様々な問題
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
『我が子、ジャン』(ラシト・チェリケゼル監督)の主人公のジェマルは妻のアイシェとの間になかなか子供ができないために病院で検査を受けた結果、夢精子症を患っている事が判明したのであるが、男としてのプライドが異常に高いジェマルはこのような事が表ざたになったら世間に顔向けができないという理由で、アイシェに妊娠した振りをさせながら闇取引で赤ん坊を手にいれて、自分の子供が生まれたように仕組む。しかしジェマルが勝手に決めた養子のジャンをアイシェは愛する事ができないため、全てにおいて無気力になってしまい、そんなアイシェに愛想が尽きたジェマルは家出をしてしまう。それから約7年間、アイシェは女手一つでジャンを育てる。他方、プライドの高いジェマルはいつの間にかプジョーに勤めており、上司の娘と結婚することになるのだが、それは何故か‘できちゃった結婚’で、一人娘を授かる。しかしそのような夫婦生活が上手くいくわけはなく、ジェマルは拳銃を片手に妻の浮気現場に乗り込むことになる。アイシェはウェイトレスとして働いていた先の男性と付き合うようになるが、ある日部屋が荒らされており、男性が金銭目的でアイシェと付き合っていたことが発覚するのであるが、彼女が蓄えていたお金はジャンが靴の中に隠していて無事だった。この時、アイシェはジャンを見直すことになるのであるが、重要なポイントはアイシェはジャンは親子であっても血が繋がっていないということである。アイシェはジャンを息子としてではなくて、初めて出逢った立派な男として見直すのである。
『旅の始まり』(マルヒン・ロハール監督)において、オランダのファービーク一家5人はフランスに旅行に行こうとする矢先に、母方の祖父のボブが末期のガンであることが判明したため、旅行を中止するのであるが、それまで上手くいっていた人間関係が崩れだす。長女のアヌークはハンサムな男性と一夜を共にするのであるが、それは所詮遊びであり、アヌークを本気で愛してくれる男の子を落胆させてしまう。長男のヨッヘムは親友と絶交してしまい、父親のフレッドを秘密基地に連れていく。旅に出るということは、とりあえず問題を先送りできるのであり、逆に言うならば旅に出なければ問題が発覚してしまうということである。そこに現れるのが死への旅をしようとしている祖父のボブと、その‘旅’の意味を懸命に理解しようとする末娘のヤスマインの不思議な関係であるのだが、結局、ボブの‘旅’はボブの娘であるティネによって見送られ、ティネの母親の死に際してのボブに対するわだかまりは解消することになるのである。
『沈黙の歌』(チェン・ジュオ監督)の聾唖の主人公であるジンという少女が父親が飼っていた金魚を電気ショックで殺してしまった理由は、ジンといつも一緒にいた叔父が海で魚をとる時に、電気ショックを使っていたためであり、それだけジンは両親の離婚後、孤立しており、まもなく流産する原因も明らかになる。聾唖のジンと父親の交際相手であるメイが仲良くなるきっかけが絵であることが意外だった。聾唖のジンとギターを弾くメイであるならば、きっかけはギターが弾かれる時に音と共に響くギターのボディであるべきだと思ったが、監督は映像の詩情よりも象徴を優先したように見える。
『ワイルド・ビル』(デクスター・フレッチャー監督)の主人公のビルが警察に逮捕され、連れていかれるときに見せる笑顔が2人の子供を守れた安堵なのか、あるいは何をやっても捕まる諦めの境地を意味するのか良く分からなかったが、ロンドン五輪の見方が変わることは間違いない。
『月の下まで』(奥村盛人監督)は観ているうちに次々と疑問が湧いてくるような作品である。例えば、明神雄介が海で溺れている時に、父親の勝雄が救助に来るシーンは、勝雄しか現場に来ていないというところが不自然で、せめて雄介を助けようかどうか迷っている勝雄に他の誰かが声をかけることで救出に向かうというくらいの演出は欲しいところで、あるいは雄介に無理やりキスをしていた恵理の部屋に恵理の父親が入ってきて雄介を殴りだすのであるが、その喧嘩の原因を作った恵理がその後全く姿を見せず、このような不自然さを解消するために、なす術がなく恐怖で怯えている恵理の顔のショットを挿入してもらいたい。同じことは勝雄がスナックで飲んでいるシーンにおいても、カウンターにいたママがテーブル客に氷を持っていた後に、テーブル客の漁師が勝雄にからんで喧嘩になるのだが、その間にママが全く姿を現さないことは不自然だと思う。雄介が抱える障害の程度も曖昧で万引きの片棒を担いだりできたりして、映画監督としての資質を疑わざるを得ない。
例えば、『二番目の妻』(ウムト・ダー監督)の冒頭のシーンで嫁ぎ先の母親のファトマと彼女の2人の娘と花嫁のアイシェが一緒に鏡の中に納まるシーンはファトマが理想としていた家族像であろうが、楽しげな話し声だけは聞こえるラストカットの家の中にある鏡には誰も映っていないという‘余韻’などが私が素晴らしいと思う演出である。
『真実の恋』(アンネ・セウィッツキー監督)の原題は『ヨルゲン+アンネ=真実』という意味だが、10歳の女の子を主人公にした恋物語は幽霊譚を組み込んだだけあって決して甘ったるいものではなく、勝手に兄のズボンを穿いていたアンネは兄によって友人たちの目の前で脱がされたり、テレビCMに出演してモデルとして活躍しているエレンの髪の毛を嫉妬したアンネが鋏で切ってしまうなど、かなりエグい演出が施されている。
同様に『Heart Beat』(浅沼直也監督)は高校のバスケットボール部を舞台とした青春物語であるが、みなみの月経から佳代と母親の喧嘩による母親の出血、さらにはバスケの試合中の怪我による出血や、耳にしていたピアスを無理やり引きちぎることに伴う出血など、爽やかさとは裏腹の血を巡る‘抗争’が描かれる。
『ノノ』(ロメル・トレンティーノ監督)の主人公のトトは上唇が裂ける先天性の障害を持っているために、上手く発音することが出来ないのであるが、フィリピン語に馴染みが無いために、トトの障害のレベルが把握しきれず、克服する過程などが上手く捉えられなかった。
『レストレーション 修復』(ヨシ・マドモ二監督)において気になることは、主人公のヤコヴ・フィデルマンが雇い入れた若者のアントンによって修復されたピアノをヤコヴが男の子に安値で売った後に店を畳んでしまい、アントンと不倫の関係になろうとしていたヤコヴの娘は子供を産むことで彼女の夫と縒りを戻すことになり、フィデルマン家族は安泰なのであるが、結局アントンは再び職を探すはめになり、ストーリーの中ほどではお金に困ったアントンが店に強盗に入ったりしており、‘ストレンジャー’に対する描写の冷淡さが、本作がイスラエル作品ということを勘案するとうっかり見過ごせないのである。
『死と乙女という名のダンス』(アンドレ・ヒューレス監督)を観終わった後に物語を振り返ってみると、確かにダンスシーンなどは悪くはなかったものの、1980年を最後に生き別れになった経緯を勘案するならば、兄のスティーヴと弟のジュラの1999年の久しぶりの出会いのシーンがいささかスムーズすぎると思う。
野田首相、また釈明=非公認発言「一般論」(時事通信) - goo ニュース
非公認発言は「一般論」=野田首相重ねて釈明(時事通信) - goo ニュース
野田佳彦首相が12日の衆院予算委員会で、次期衆院選の民主党マニフェストに消費増税
を明記し、これに賛同しない場合は「公認の基準から外れる」と明言したのだが、党内の増税
反対派の反発を受け、同日の両院議員総会で「誤解を生んだ」として発言を修正したことに
関して、13日午前の参院本会議で「政党本位、政策本位の選挙で、候補者は所属議員の
議論を集約して作成したマニフェストを掲げて戦うのが自然な姿だと、一般論で答弁した
つもりだった」と釈明し、14日の視察先の岩手県大槌町で記者団の質問にも「マニフェスト
の一般論として答弁した。その解釈を民主党両院議員総会で説明したので齟齬はない」と
重ねて釈明した。つまりマニフェストの一般論としては、賛同しない場合は「公認の基準から
外れる」のであるが、民主党内も一般論は通用するという“誤解”を解いたという事なのか