ケンのブログ

日々の雑感や日記

桜の葉も満開 鉄腕アトム

2022年04月17日 | 日記歌入り
桜並木の道を歩くともう桜の葉は目いっぱい大きくなっている。

花が散るとあっという間に葉が成長していくなと思う。

カエデの木をみると こちらももう葉が大人の大きさになっている。

新緑の季節だなと思う。

春と思っていたけれど、もう、初夏にちかい季節になってきた。

けれども、今日のように曇り空だと朝、そして日が落ちてからは結構寒い。

結局 朝晩は結構厚着をして、日中はちょっと暑くなって今年初めて、冷房を入れた。

冷房と言っても 外気より高い温度に設定したから 実質は除湿という感じだけれど。

しかし、体感温度の寒暖差の大きい一日だったなと思う。

大阪では自動車に乗らずに 歩き回っていた。

この季節、ちょっと歩くと暑くなり 止まるとまた寒くなる。

それで、暑くなると服を脱いで鞄にしまうという習慣だった。

鞄にしまっても大丈夫な服装ということを心がけるとどうしてもユニクロとかスーパーマーケットに売っている、ポリエステル素材のブルゾンという感じになってしまう。

最近は ポリエステル100パーセントのジャケットも売っている。

ポリエステルのジャケットなら暑くなったら ちょっと がさつな行為とは思うけれど、鞄にしまえばいいと思った。

それで、お店で試着して、鏡を見ると、なんだかしっくりこない。

若い人が着るならともかく 僕くらいの年齢でポリエステルのジャケットを着ると、何とも言えない違和感があるというか ちょっと安っぽく見えてしまう。

たぶん、ジャケットは形はフォーマルだけれど、素材のポリエステルはいわばアンフォーマルな素材なのでそのアンバランスが、違和感のもとなのだとおもった。

若い人だったら特に違和感はないように思うけれど、、、。

■鉄腕アトム
鉄腕アトムの主題歌をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音しました。

聴いていただけると幸いです。

“”目をみはれ ラララ 耳をすませ そうだ アトム 油断をするな 
こころただしい ラララ 科学の子 七つの 威力さ 鉄腕アトム“”と歌詞にあります。

「目をみはれ ラララ 耳をすませ」 って手塚治虫さんが描いたアトムの風貌そのままだと思います。

アトムの表情そのものが目をみはって 耳をすましていますから。

「そうだ アトム 油断をするな」このフレーズが子供のころ一番好きでした。

肯定とか否定とか そういう言葉が今 流行っているようですが 「そうだ」って肯定の最も典型的な表現ですね。

そうだ と肯定したうえで 油断をするな とアトムにアドバイスとエールを送っています。

「あかん 危ないぞ 気をつけな」 というように否定から入ると励ましているつもりが 本人を余計に緊張させてしまうことになりがちです。

「だめじゃない もっと しっかり しなきゃ」 と言われると どうせダメだよと言われた方はなってしまうことが多いです。

「そうだ アトム 油断をするな」

と言われると アトムもきっと 「そうだ 油断はしないぞ」 と思うことでしょう。

愛と夢に満ちた素晴らしい歌詞だなと思って作者を見ると
谷川俊太郎さんなんですよね。

やっぱり違いますね。
↓鉄腕アトムの主題歌をカラオケDAMの音源で歌いました。

名古屋フィルハーモニー交響楽団第500回定期演奏会 あさいちばんはやいのは

2022年04月16日 | 音楽
名古屋フィルハーモニー交響楽団第500回定期演奏会を聴きに行く。

会場は愛知芸術劇場コンサートホール。

指揮は小泉和裕さん

年度がかわったせいか、コロナにもみんなある程度慣れたせいか、お客さん結構入っている。

500回記念ということで、来場した人もいるかもしれないと思った。

最初に演奏されたのは

モーツァルト 交響曲第41番ハ長調 K.551 ジュピター

モーツァルトは音の数が少ない分 ちょっと乱れたりすると目立ってしまうこともある。

もわっとした感じの演奏にならなければいいけれど、とほんの少しだけ心配していた。

しかし、第一楽章 小泉さんが腕をまっすぐしたに振り下ろし オーケストラから力強い音がでてきたとき ああ これは大丈夫と思った。

冒頭 打楽器的なモチーフで始まるこの曲。

この打楽器的なモチーフは楽章の中で何度も出てくる。

あるときは 柔らかく ある時は力強くそのモチーフがでてきて、ああ、出てくるたび変化している と思った。

旋律が滑らかなところでは コントラバスなど低音の弦が力強くそして柔らかい音を出しているなと思った。

流麗というよりは引き締まってストイックという印象を受けた。

第二楽章は 弦が旋律を奏で 管楽器がパッという感じでそれを受ける。

これを二回繰り返して楽章が始まる。
その部分の弦と管の呼びかけあいが美しく決まったと思った。

そのことは覚えているけれど そのほかのことは忘れてしまった。

しかし、第二楽章もいいなと思った。

第三楽章もちょっと抑え気味かなと思ったけれど かなり良かった。

第四楽章は 疾走していく感じで いい感じと思った。

弦楽器がこまかい音符を速く奏でていくところも 鮮やかとまでは言えなくても スーッと疾走していく感じで、いいなと思った。

全体として、日本のオーケストラで聴いたモーツァルトの交響曲の演奏の中では、かなりいい部類と思った。

あと、この曲はクラリネットがない。

ステージを見たら、通常クラリネットがある位置に ホルンが来ていたので、ちょっと見栄えが僕には新鮮に見えたし、クラリネットがなくてもこれだけ豊かに木管が聴こえるんだなと思えたことは やはり 生演奏を聴く醍醐味だった。

あと生で聴くと この曲の木管の響きってスピリチュアルなんだなと感じる。

それも 僕にとっては一つの収穫だった。

500回記念ということで みんな 演奏にひときわ気合が入ってると思った。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが
リヒャルトシュトラウスの「アルプス交響曲」作品64

冒頭 えらいドライな音が出ているなあ 大丈夫だろうかと思った。

ところが 途中でオーケストラがだんだんクレッシェンドしていくと それにつれて急に霧が晴れたように音があかるく鮮やかになっていったので ああ 最初ドライだったのは 次に来る鮮やかさを引き立たせるためだったんだなと思った。

大きい音楽と言えば たとえば 僕が今 家で聴くのはブルックナーが中心になっている。

ブルックナーの場合だと、彼がベートーヴェンの5番と9番に特に傾倒していたという話からも分かるように、かなり一定のリズム感の中での動きという印象がある。

同じ大きい音楽でもリヒャルトシュトラウスの場合は おどけたように音楽が進むこともあるし ソロ楽器がすすり泣くように奏でるところもある、もちろん大音響になるところも。

その 音楽の多様性に生演奏を聴くと驚いてしまう。

これは 家でラジカセを寝転んで聴いていてもわからないことなので、、、。

そして、リヒャルトシュトラウスは極めて多様性に富む 大きい音楽を作ったという意味で、とても独創的、独自の世界を作り出した大作曲家なんだなという思いを新たにする。

 
ただ、50分の演奏時間で 楽章の切れ目が交響曲のようにはっきりとはないせいか 途中で集中力が切れて 眠くなった場面もあった。

あと、僕が音楽に集中できていなかったせいもあると思うけれど、フォルテになるところで、音楽が盛り上がっているというよりは ちょっと音がでかくて うるさい と思う場面があった。

盛り上がっていると感じるか うるさいと 感じるかは本当にその時々の感じ方次第だなと思った。

途中で 僕は目が近視なのでよく見えなかった部分もあるけれど、パーカッションの方がブリキの鐘のようななんともいえない コロコロというような響きの音の出る楽器を奏でる場面があった。

その時に 小泉和裕さん そういえば 岐阜県で農場を営んでいらっしゃるんだな と演奏に関係あるのかないのかわからないようなことを想像してしまった。

曲が終盤になったときオルガンの音が聴こえたので 目を凝らすと ステージ背後のパイプオルガンのところに奏者の方が座っておられた。

オルガンの音はやはりいいなと思った。

500回記念の定期演奏会ということで 聴く人も演奏する人も気合の入った演奏会だったと思う。

帰りは 錦通りを名古屋駅まで歩いた。

みんな春で おしゃれをしているなと思った。

名古屋を歩くのも少しだけ慣れたような気がする。


■あさいちばんはやいのは
童謡「あさいちばんはやいのは」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音しました。

聴いていただければ幸いです。

この歌は子供のころ「おかあさんといっしょ」という番組で歌のおねえさんが歌っていて、僕が大好きな歌でした。

あさいちばんはやいのは パン屋のおじさん のあと パララランラ ランラ ランラという楽器音が入り そこも大好きで一緒に口三味線で歌っていました。

今も子供のころからの癖で つい口三味線が出てしまいます。

↓「あさいちばんはやいのは」をカラオケDAMの音源で歌いました。





電車に乗る kiroro長い間

2022年04月14日 | 日記歌入り
夕刻、電車に乗る。

周りの若い人たち。半数以上はスマホを見ている。そして、そのまた半数以上の子は、アニメなどの動画を見ている。

耳にイヤホンをして音声を聞きながら動画を見ている。

ある子が、急に動画を見るのをやめて、スマホの上でさかんに指を動かしている。

状況から見て、動画を見ている途中でラインが入って、ラインの相手とチャットのようなことをしていると思われる。

大丈夫だろうかと思ってしまう。

大阪にいるころは 夕方のラッシュ時になると割と当たり前の光景だったけれど、東海地方に来て 自動車での行動が増えて、たまに電車に乗る。

その、車内でみんなが一心にスマホの画面を見ている姿はちょっと異様に思えてくる。

東海地方ではたまにしか電車に乗らないから、余計にそれを思ってしまう。

健康にもよくなさそうだし。

眼や耳が悪くなり、神経もおかしくなる人も出てきそうな気がする。

あまり、考えたくないことではあるけれど。

動画を見ている最中に、友達などからのラインに対応しなければならないって、うれしいと思う人、半分、ストレスに感じる人が半分と思うし、、、。

本当に科学技術の発達も来るところまで来てしまったように感じる。

学校で教科書としてタブレットを使うようになると、タブレットで動画を見て、勉強しなくなる子が増える と危惧する人の意見が新聞に書いてあったと記憶しているけれど、本当に僕もそんな気持ちになってくる。

先日、ネットでものを買ったら、まだ何もトラブルもおきていないうちに

「この度は ご注文いただいたのに配送が遅くなりまして誠に恐れ入ります」というメールが届いた。
普通、日本の習慣だと、注文を受けて最初に出すメールや便りは「この度は、ご注文ありがとうございます」であるはずだと僕は思っている。

いきなり まことに恐れ入りますというメールを送るなんて どういう感覚なのだろうと思ってしまった。

結局、その業者から来るメールはとんちんかんなことの連続で、僕はその商品をキャンセルして 代金を返してもらった。

代金を返してもらった翌日に、「この度は 当社の製品をお選びいただきまして ありがとうございます」とお礼のメールが来た。

ええ? ここは 「ありがとう」 というお礼のメールではなくて、「この度は申し訳ありませんでした」 というお詫びのメールを送る場面なのに、、、。

ありがとう と 申し訳ありません があべこべになってしまっている。

それで、その業者から来たメールを時系列順にならべて、振り返ってみると、どうやらその業者のメールの担当者は メールの中身など全く読んでいなくて、受注のタイミングではAをクリックして既存のメールを送る、発送のタイミングではBのボタンをクリックする というたぐいのことだけ覚えていて、何も考えずに機械的に、ここはAをクリック ここはCをクリック という具合にやっているから、とんちんかんなことになってしまうということに気づいた。

商品がうまく届いた時には誰もそんなメールまともに読まないから結果オーライで大丈夫だけれど、ひとたび、商品に不具合があると 当然 どういうメールが来たかをチェックするから、内容を吟味していないメールを送る会社は悪徳業者と勘違いされてしまう可能性も高くなってしまう。

なぜなら、詐欺メールを見破るコツは 内容のつじつまの合わない不特定多数におくっているようなメールを見分けることというガイドラインはかなりいきわたっているからだ。

本当に機械にたよってクリック クリック タップ タップ だけで切り抜けていると、結果オーライでいけるうちはいいけれど、ひとたび、狂いが生じると、挽回不可能な状況になってしまうなとしみじみと思う。

そして、今の世の中 そういう結果オーライの状況に追い込まれている人の割合って思いのほか多い。

僕も、ここに書くべきか少し悩むけれど、同意する の内容をろくに読まないで「同意する」をクリックすることなど頻繁にある。

本当に、うまくいっているうちはいいけれど、ひとたび狂いが生じると怖い時代だなとしみじみと思う。

■長い間
Kiroroの「長い間」をカラオケDAMの音源で歌い、ICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければ幸いです。

「気づいたの あなたが こんなに 胸の中にいること」と歌詞にあります。

このフレーズが何度も歌われていて、とても心に留まりました。

人のことを好きになるということは確かに 気づくとその人のことを考えている、そういうことだと、思いました。

Kiroroは沖縄出身のデュオですね。

沖縄の人の歌って、何とも言えない、ストレートな愛情がこもっているものが多いと思います。
↓kiroroの「長い間」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音しました。

ややこしい時代

2022年04月12日 | 日記
今日の新聞にこんな投書が出ている。

「35歳女性。先日 美容院で新しい髪型にしました。でも誰も私の髪型について話しません。そこで知り合いの男性に、『なぜ、髪型をほめてくれないの』と冗談めかして尋ねると『セクハラになるから』と返答され困惑しました。

男性が女性の髪形をほめることがセクハラとは知りませんでした。円滑なコミュニケーションの一環だと思っていましたが、女性が男性の髪形をほめてもセクハラと言われるのでしょうか。誰もほめてくれなかったことを根に持つわけではありませんが、セクハラのむずかしさを感じています」

本当に、その通りだなと思う。

セクハラ という言葉が頻繁に使われるようになると、どうしてもその言葉が頭に浮かんでしまう。

あれ、髪型をほめるとセクハラなの という思考回路が働いてしまう。

これは、人間はだれしも、頭の中に持っている言葉でものを考えるからどうしてもそうなる。

たとえば、白いハンカチを見て あのハンカチ 白い と思えるのも 白い という言葉が頭の中にインプットされているからだ。

髪型をほめたらセクハラかなあという 疑問も セクハラ という言葉が頭の中にインプットされているからそうなってしまう。

綺麗な髪形を見て 口に出して言うことだけでもそれなりに 思い切りがいる。

そこへもってきて これはセクハラに該当するかどうか ということも判断したうえで思いきらなければならないから、思いきることに対するハードルはますます高くなってしまう。

本当に、そう考えるときゅうくつな時代ではあるなと思う。

このように言葉が独り歩きすることで、行動が制約される事象として 個人情報もあると思う。

「ちょっと、住所教えていただけますか。なんかの時に連絡先知っていると心強いですから」
「あ、それは個人情報ですので」
要するに個人情報だから教えられないということが言いたいのだと思う。

でも 個人情報の保護に関する制約を受けるのは、個人情報取り扱い事業者に該当する事業者であって、プライベートな個人は個人情報保護法の制約は受けない。

もう、なんでも個人情報ですから と言ってつっぱねられて 学校のクラスの連絡網もできないという状況は全国のいたるところで起きているらしい。

これまたきゅうくつと言えばきゅうくつな気がする。

昔だったら あの子はちょっと自信がなさそうだから励まして自信持つようにしてあげよう ですんでいた。

今は あの子は自己肯定感が低く 承認欲求が高い それは成長期における愛情が不足していることが原因の一つとして考えられる場合があり、承認欲求のサインは見落とさずに適切なリアクションを示すことが大切、場合によっては専門家の助言が必要、などともう どんだけややこしいんや と思ってしまう。

ややこしい割には 自己肯定感が低いという言葉を使うことで物事を単純化しすぎてしまっていることも多いし、、、。

昔なら、あの子は なんや 落ち着きがないなあ ですんでたことが 今は 多動症とか言われ場合によっては医者でお薬、学校の先生はこどもがお薬を飲んだか管理していることもある。

まあ、時代は変わるものだなあと思う。

いい方向に世の中が変わっていくことを望んでいる。





春の一日 オバケのQ太郎

2022年04月11日 | 日記歌入り
桜もほとんど散って 葉桜になったなと思う。

日中はかなり暑い。

だからと言って、薄着で出ると、何かの拍子に寒くなることもあるから、そういうのはやっかいだなと思う。

春先の、ブルゾンとか、あったらいいとは思うけれど、着る季節が短いから、なかなか手に入れようという気にならない。

毎年、そんな感じで時が流れている。

■オバケのQ太郎
藤子不二雄A さんが亡くなられたと 何日か前の新聞に出ていました。

代表作の一つに共作の オバケのQ太郎 があると書いてありました。

僕は子供のころA面にオバケのQ太郎 B面にオバQ音頭 の入った45回転のドーナッツ板(なつかしいなこの言葉の響き)を持っていて、もう何度も何度も繰り返し聴いていました。

今でもかなり正確にメロディラインを覚えています。

子供のころ繰り返し聴いたものは忘れないですね。

「僕はオバケのQ太郎 あたまのてっぺんに毛が3本 毛が3本 だけども僕は飛べるんだ。
8キロ 10キロ 50キロ 一休み 一休み

空から降りたら犬がいた ワン ワン 

アラこわい キャー 僕は犬には弱いんだ 弱いんだ」と歌詞にあります。

頭のてっぺんに毛が3本 しかし 飛べる

頭のてっぺんに毛が3本であることと 飛べることが 逆説になっています。

なぜ、「毛が3本」と 「飛べる」 が逆説の関係なのか。
 
ちょっと論理では説明できませんね。説明できないけれど なんとなく 言える 言える と思えるところが面白いということだと思います。

オバケだけれど犬には弱い こういう意外な弱点 というのも その後のマンガのいろんなキャラに受け継がれていった特色だと思います。

↓「オバケのQ太郎」をカラオケDAMの音源で歌いました。