今日の新聞にこんな投書が出ている。
「35歳女性。先日 美容院で新しい髪型にしました。でも誰も私の髪型について話しません。そこで知り合いの男性に、『なぜ、髪型をほめてくれないの』と冗談めかして尋ねると『セクハラになるから』と返答され困惑しました。
男性が女性の髪形をほめることがセクハラとは知りませんでした。円滑なコミュニケーションの一環だと思っていましたが、女性が男性の髪形をほめてもセクハラと言われるのでしょうか。誰もほめてくれなかったことを根に持つわけではありませんが、セクハラのむずかしさを感じています」
本当に、その通りだなと思う。
セクハラ という言葉が頻繁に使われるようになると、どうしてもその言葉が頭に浮かんでしまう。
あれ、髪型をほめるとセクハラなの という思考回路が働いてしまう。
これは、人間はだれしも、頭の中に持っている言葉でものを考えるからどうしてもそうなる。
たとえば、白いハンカチを見て あのハンカチ 白い と思えるのも 白い という言葉が頭の中にインプットされているからだ。
髪型をほめたらセクハラかなあという 疑問も セクハラ という言葉が頭の中にインプットされているからそうなってしまう。
綺麗な髪形を見て 口に出して言うことだけでもそれなりに 思い切りがいる。
そこへもってきて これはセクハラに該当するかどうか ということも判断したうえで思いきらなければならないから、思いきることに対するハードルはますます高くなってしまう。
本当に、そう考えるときゅうくつな時代ではあるなと思う。
このように言葉が独り歩きすることで、行動が制約される事象として 個人情報もあると思う。
「ちょっと、住所教えていただけますか。なんかの時に連絡先知っていると心強いですから」
「あ、それは個人情報ですので」
要するに個人情報だから教えられないということが言いたいのだと思う。
でも 個人情報の保護に関する制約を受けるのは、個人情報取り扱い事業者に該当する事業者であって、プライベートな個人は個人情報保護法の制約は受けない。
もう、なんでも個人情報ですから と言ってつっぱねられて 学校のクラスの連絡網もできないという状況は全国のいたるところで起きているらしい。
これまたきゅうくつと言えばきゅうくつな気がする。
昔だったら あの子はちょっと自信がなさそうだから励まして自信持つようにしてあげよう ですんでいた。
今は あの子は自己肯定感が低く 承認欲求が高い それは成長期における愛情が不足していることが原因の一つとして考えられる場合があり、承認欲求のサインは見落とさずに適切なリアクションを示すことが大切、場合によっては専門家の助言が必要、などともう どんだけややこしいんや と思ってしまう。
ややこしい割には 自己肯定感が低いという言葉を使うことで物事を単純化しすぎてしまっていることも多いし、、、。
昔なら、あの子は なんや 落ち着きがないなあ ですんでたことが 今は 多動症とか言われ場合によっては医者でお薬、学校の先生はこどもがお薬を飲んだか管理していることもある。
まあ、時代は変わるものだなあと思う。
いい方向に世の中が変わっていくことを望んでいる。