ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行く(第686回)

2024年02月25日 | 音楽
2月17日京都市交響楽団第686回定期演奏会を聴きに行く。

指揮 川瀬賢太郎さん

最初にバイオリン独奏石田泰尚さんで マルサリスのバイオリン協奏曲ニ長が演奏される。

初めて聴く曲なので どの楽章とかいうのは忘れてしまったけれど 指揮台の左手にバイオリン独奏の石田さん 右手に 小ぶりのドラムセットの配置で演奏された場面があった。

そのドラムセットのところに 演奏の途中で 一見したところでは、ドラムセットを普段たたいておられるという感じには見えない雰囲気の方が出ていらした。 そして、その方は、そのセットで いろんなリズムをいろんな音色で奏でられた。

どのリズムも 一般的には そんなにたやすく奏でられるものではないように 僕には思えたけれど その方は いともたやすく それらのリズムを奏でておられて どの奏で方も 僕には すごいというか 完璧なものであるように聴こえた。

かなりシャープで小気味いい音が出ているように思えた。

その方は そのドラムセットでの出番が終わると ティンパニーのところに戻っていかれたので 近眼の僕は ああ あのドラムセットを奏でておられたのは ティンパニーの方だったのだとやっとわかった。

やはり クラシックで プロとしてティンパニーをしておられる方は ドラムセットもお手の物なのだな と生まれて初めて悟ったというか そういう場面を目撃した。

曲の途中で ラベルのピアノ協奏曲ト長調のリズムを連想した場面が何度かあった。

それで 家に帰ってきて 僕が連想したリズムは どれだったのだろうと ユーチューブで聴いてみたけれど 該当するリズムを見つけることは出来なかった。

ただ そうして ラベルのピアノ協奏曲を改めて聴いてみて この曲もジャズの影響が強いことを改めて 悟った。

本当に 音楽はいろんなところで 影響を与え合っているのだなと思った。

20分の休憩をはさんで次に

ドボルザークの交響曲 新世界より 作品95が演奏された。

第二楽章 いわゆる「家路」のメロディーが様々な形で出てくるのを聴いていたら、やっぱりいいな と思って涙と鼻水が出てきた。

涙はほっとけばとまるけれど 鼻水はちょっとやばいかも と思って ひとえに巻いていたマフラーを二重に巻きなおしたらとまったので ほっとした。

僕の場合 鼻水は 花粉症というよりも寒暖差アレルギーで出ることが多いので 温めればよいとは思っていたけれど 温めたら止まったのでよかった。

しかし、20歳代のころ この曲を生演奏で聴いた時 前の列に座っていた 女の子が第二楽章のメロディを涙を流して聴いていて 確かに 美しいメロディだけれど あれで泣くなんて、、、と思ったことがある。

その時は 将来 自分が同じメロディで泣くことになるとは思っていなかった。

きっと 最近の音楽や歌が 言葉数が多い割に 乱暴に聴こえたり 投げやりなものに聞こえたりすることが多いので やっぱり 家路のように根源的なメロディはいいなと思ったことで涙がでてきたような気がする。

第四楽章の終わりの方でちょっと観客席の周りを見回してみたら みんな かたずをのむようなすごい集中力で聴いている。

この お客さんの集中力は あるいは ベートーヴェンの第九で 歓喜の歌が流れている場面をしのぐかも と思った。

同様のことを2019年に同じ京都コンサートホールで フィラデルフィア管弦楽団の演奏で「新世界から」をきいた時にも思ったので やはり ドボルザークのこの曲には 人の心をひきつけてやまない 何か 根源的なものがきっとあるのだろうと思う。

そして その 何かの中身の一つがやはり 民族音楽の影響ということなのだと感じる。

コンサートが終わって 北山駅に向かう道を歩いていると 年配の女性の 「しかし あの人も じじむさならはったなあ」(しかし あの人も いかにもお爺さんという感じになったなあという意味の関西風の言い回し)という声が聞こえてきた。

話しの状況として コンサートの最後にステージに上がられた 今度引退される市長さんのことを話されていることは ほぼ明らかだった。

まあ いかにも 京響のコンサートの帰りに聞こえてくる言葉という感じで それもよかった。

それはともかく 一日 いちにち 無事に過ごせますように
それを第一に願っていきたい。






              

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