「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二がその成功のために奔走した「上海反戦会議」

2012-12-14 22:43:43 | 多喜二のあゆみー東京在

「反戦反帝の国際連帯のだたかい」(京都学習協)より

一九三一年九月一八日夜、日本の関東軍は、奉天北郊の柳条溝で鉄道をじぶんの手で爆破し、これを中国のしわざだといつわって、とうとう「溝州」(中国東北部)侵略の軍事行動をおこしました。

 一九三二年三月には、カイライ国家「溝州国」をつくって、これを中国とソ連への侵略基地にしたてました。そして一九三七年七月七日には、蘆溝橋事件を理由に、ついに中国との全面戦争に突入、一九四一年一二月八日には真珠湾攻撃によってアメリカに宣戦、それから一九四五年八月一五日の敗戦・降伏まで、じつに足かけ一五年間のながい戦争に人民をなげこんだのです。

 日本人民は労働者階級を中心にして、三・一五事件、四・一六事件によって大きな打撃をうけたにもかかわらず、不屈のたたかいをつづけました。

 さきにのべた対支非干渉同盟の活動は、反戦同盟をへて、日本反帝同盟(一九二七年に片山潜、宋慶齢、ロマンーロランらによって創立された「世界反帝国主義・民族独立支持同盟」の日本支部として、一九二九年一一月七日結成される)にうけつがれ、反帝同盟は、「帝国主義戦争反対」「中国革命の擁護」「朝鮮、台湾の完全な独立」「在日朝鮮人、台湾人の差別反対、生活と権利の擁護」などの要求をかかげて、日・中・朝三国人民の連帯行動と反帝統一戦線のためにたたかいました。

 そして、一九三三年には、国際反戦委員会(一九三二年八月のアムステルダム反戦大会で事務局を常設)のよびかけで、上海で反戦会議がひらかれることになったので、日木共産党をはじめ日本反帝同盟加盟の祖織は、その支持委員会を工場、農村、学校、地域につくって、反帝反戦の活動を全力をあげてくりひろげました。

 秋田雨雀、江口渙、佐々木孝人、加藤勘十、金子洋文らの進歩的民主主義者や左翼社会民主主義者らも「極東平和友の会」をつくって、これに協力しました。

 一九三二年二月二〇日、輝かしいプロレタリア作家であり、共産党員であった小林多喜二がとらえられて、築地警察署で残虐な拷間によっで殺されたのも、かれが文化団体選出の反帝同盟執行委員として、上海反戦会議のために活働していたときでした。同年九月三日、東京の本所公会堂でひらかれる予走の「日本反戦大会」も、発起人であった布施辰治らがことごとく事前に検挙され、会場を警官によって占拠されたため、開くことができませんでした。

しかし、上海反戦会議は九月末日に、国民党と各国帝国主義者の弾圧下に、秘密のうちに上海でひらかれ、イギリス労働党のジャン・マレー卿をはじめ、フランス、ベルギー、ポーランド、アメリカ、宋慶齢末人を中心とする中国代表らか参加しました。これは、戦後一九五二年に北京でひらかれた「アジア太平洋地域平和会議」の前史をなすものとして、大きな意義をもつものでした。

 これら国内の反戦反帝運動と呼応しで、ドイツでは国崎走洞らが「革命的アジア人協会」をつくって反戦運動をおこなっていました。

 しかし、この間、共産党のなかからも、佐野学、鍋山貞親、三田村四郎らが、天皇制権力のまえに屈服して、獄中で「転向」して、労働者階級をうらぎりました。そして、一九三四年の初めごろには、共産党をはじめ全協その他の戦闘的大衆組織も、ほとんど活動できないまでに破壊されてしまったのです。野呂栄太郎(一一月逮捕、拷問のため・翌三四年二月死亡)についで、一九三三年暮、支配階級が共産党指導部にもぐりこませたスパイを摘発して捕えられた宮本顕治は、特高警察の拷問とでっちあげに抗して、さいごまで節をまげず、真実を守って敢然とたたかいぬきました。

 なお、この間、日本の労働運動のもっとも古い、すぐれた先覚者として偉大な足跡をのこし、天皇制政府のために海外に亡命をよぎなくされたのちも日本共産党の創設に指導的な役割をはたし、世界、とくにアジアの反帝反戦闘争のために東奔西走して、生涯を世界革命のためにささげた片山潜が、死の瞬間にいたるまで、思いを祖国の労働者と人民のうえにはせながら、一九三三年一一月五日モスクワで死去したことも忘れることはできません。

東京地下鉄の「もぐら争議」

 労働者は、さきにのべた反戦反帝の不屈のたたかいと同時に、戦争の拡大とともにひどくなる一方の労働条外の切下げや権利のはくだつに抗して、きびしいたたかいをつづけました。一九三二年三月の東京地下鉄の仲間たちの「もぐら争議」は、その代表的なものでした。

 一九三〇年ごろから全協のオルグが東京地下鉄の工作にとりくみ、うどん会、同期生会、ピクニック、学習、映画や文芸サークルなど、いろいろな自主的なサークルをつくる活動をねばりづよくつづけて、ようやく二〇名たらずの全協地下鉄分会かできたのは、一九三一年一一月ごろでした。

分会員たちは、分会機関紙や職場新聞をつくり、あらゆる方法で、職場の要求、不満、できごとを知らせあうなかで、ついに、勤務時間を七時間にしろ、女子の給料を一円五〇銭に、詰所を地上に、駅に便所をつくれ、現場手当一五円、現金出納係手当三円をつけろ、生理休暇をあたえろ、入営、演習のときは休職にして除隊後は元給で復職させろ、出征中の給料は全額支給しろ、など二五項目の要求をまとめてストライキを準備しました。

交渉委員をはじめ、すべて民主的にえらばれ、全員の部署、任務もみんなできめ、争議戦術をはなしあいました。その結果、一九三二年三月一九日の夜半、終電車四台を上野の地下鉄の入口にとめ、最前部には鉄条網をはりめぐらして、「さわると死ぬ」と貼りだし、三週間分の食事や日用品をはこびこんで、全員一五八名が車内にたてこもりました。一〇代から二〇
代のわかい労働者、とりわけ婦人労働者が中心でした。

 こうして、二〇日始発からストライキにはいり、「闘争日報」や「家族への手紙」がガリ刷りで発行され、また外部とは、激励のモナカのなかに、銀紙でつつんだレポートをいれたりして連絡がとられました。このストライキを知って、東武、西武、小田急でも出征兵士にたいする要求がだされはじめたので、これをおそれた陸軍省の圧力もあって、四日目になって、会社は「出征兵士は欠勤とし、軍隊支給との差額を支給する」「入営兵士は除隊後ただちに原職に復帰させる」「女子の賃上げ、山札手当、神田、浅草に便所をつくる」などをみとめました。しかし、官憲は卑怯にも争議がおわると。

 「赤色分子」の名で、先頭にたってたたかった共産党員や活動分子をとらえて投獄しました。

 この「もぐら争議」は、もし、労働者の切実な諸要求を土台にして、一人ひとりの自覚と創意にもとづいて、周到な準備がされるならば、どんな困難な条件のもとでもストライキは勝利しうることをおしえています。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p81-84)


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