「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

共産党事件の主なるシンパ 時事新報 1931.5.21(昭和6)

2011-09-04 10:05:34 | 多喜二のあゆみー東京在

時事新報 1931.5.21(昭和6)


再生共産党事件の主なるシンパサイザー


今回の日本共産党再建に当り首脳部は在露コミンテルンと意志の疎通を欠き、活動資金の調達に悩み田中のみは去る四年秋モスクワから帰国した今本、岩尾等の同志から資金を融通されたが、佐野前納等は極度の資金難に陥った処から別項の如く党中央部に金策部を設け曾木克彦を責任者として内地に於て資金の募集をなすべく去る四年十月頃から左翼運動に理解ある少荘学者、文士、芸術家等の同情にすがり五年二月までに五千五百円醵金を受けたことが判明し、この間中央技術部の懇請により事情を知って毎月党本部へ定額の寄附行為をなしたシンパサイザーも多数あり主なる人々は次の如くである

麹町区平河町五の二五
東大法学部助教授 平野義太郎
芝区芝公園一三号
 文士 蔵原惟人
市外杉並町高円寺五三七
 法政、日大教授 三木清
本郷区駒込曙町一
 法政大学教授 小林良正
市外高田町雑司ヶ谷亀原二五
 東大経済学部助教授 山田盛太郎
市外稗衾町碑文谷一、二九一
 伝染病研究所医師 滋賀秀俊
市外池上町一、四四九
 新聞記者 小沢正元
本郷区駒込東片町四一
 東京帝大助手 小宮義孝
市内千駄ヶ谷町八九六
 新聞記者 武井一男
府下三鷹村牟礼四一三
 画家 永田一修
市外落合町上落合一八六
 文士 村山知義
小石川区駕篭町二二六
 ナップ同人 佐野碩
市外板橋町羽根沢三、四八一
 画家 岡本唐貴
市外中野町大場一六四七
 ナップ同人 大河内信威
赤坂区新坂町二四
 文士 高田保

略歴

シンパサイザーとなり運動を支援したため検挙された主なる人々の略歴は左の如くである

 

平野義太郎

 京橋築地の生れで、一高を経て大正十年四月東京帝国大学独法科を首席で卒業、法学部研究室の助手となったが在学中帝国学士院よりローマ法の論文につき名誉の書籍を贈られ又高文行政科をパスした秀才、大正十二年六月法学部助教授に任命され昭和二年二月二十五日フランスへ留学を命ぜられたが、平野氏は予て帝大内に於ける左翼教授として大森義太郎氏等と共に文部省から睨まれて居り殊に「法律に於ける階級闘争」の著書に於てストライキ及び罷業の合法性を認め主張した、法学部学生は徹底せる氏の理論に心服していたが、文部当局の圧迫で退職せしめられた

 

大河内信威

 元貴族院議員で貴族院研究会の首領工学博士大河内正敏子爵を父に持つ名門の出である、明治三十五年長男として生れ、高等師範附属中学を卒業したが三年頃から研究、十年夏山川均の水曜会に入り、大正十二年浦和高校文科に入学、在学中学生連合会を組織そのリーダーとなり左傾分子として二学年の時盟休事件に参加し一年後れて卒業、東京帝大経済科入学試験に左傾学生として入学を許されず、其後十四年末プロレタリヤ文芸家同盟に入り小川信一と称しシンパサイザーから九百九十四円を集金自身百九十八円を支出し、金策係に支給した、同人は市外中野町中野一六四七に志寿江夫人(二三)の間に信具(四)とささやかに暮し、志寿江夫人は石川県出身で上京遊学後帝劇女優をしている頃知り恋愛自由結婚をしたため別居嫡子のため全く勘当も出来ず正敏子爵の大きな悩みの種となっている、信威一家の生活費は毎月ひそかに子爵家から仕送られている模様である父正敏子は令息が今次の共産党事件に連座したため貴族院議員其他一切の公職を辞し淋しい日を送っている

 

山田盛太郎

 八高卒業東京帝大経済学部在学中マルクス資本論を研究し卒業後助教授に任ぜられ、曾て資本論を教材に用うることを教授会に提出し、土方成美博士等と激論を交え否決されたことがあるが、わが国に於けるマルクス学者の一権威として認められていたが大森、平野両助教授等と共に赤色教授として文部当局に睨まれ五月の検挙の厄に逢い後釈放されたが、七月十一日附で免職となった

 

佐野碩

 脳神経科の大家医学博士佐野彪太氏の長男明治三十八年生れ、父博士は故後藤(新平)伯の女婿で、また三・一五共産党事件で有名な佐野学の実兄である、同人は浦和高等学校時代から演劇に興味を有ち学生時代にプロ劇を実演、学校当局から注意人物とされていた、帝大文科入学後も読書会等に加入して活躍し中途退学後全日本無産者芸術家同盟の同人となり村山知義等と共に左翼劇場の指導者となった、二三子夫人(旧姓高橋)と演劇研究所に研究中恋愛に依り結婚したもので夫人は現在小石川駕篭町の博士邸に居るが夫君が左翼劇場演出主任となってからは同劇場のスターとして昭和四年六月築地小劇場に上演した夫君演出の「全線」には主役葉青山の女房翠英に扮したことがある

 

三木清

 大正五年一高を経て京都帝大に入学、西田幾太郎教授指導の下にディルタイ純粋哲学の研究に専心し卒業後ドイツに留学し、ヘーゲルの弁証法に興味を持ち暫時マルキシズム研究に没頭していた、帰朝後は日本東洋、法政各大学の講師をしていたが、論文は三木哲学完成を暗示し西田哲学と並んで世界に誇り得る哲学大系が完成される日が近づいたものと期待されていた位で、純情な氏は今回の事件にも可成喰い入っていたといわれている

 

小林良正

 故法学博士小林丑三郎氏の長男で、東大経済学部で経済学を専攻したが、現在は法政大学経済学部の講師をした居る

 

被告の略歴 帝大を出て―ドックの人夫に細胞組織に努めた年若の首領田中清玄

中央委員長田中清玄はまだ二十六歳という若さで、北海道渡島国亀田郡七飯村大字七飯字鳴川一二士族で母愛子の手に育てられ、大正十三年函館中学を卒へ弘前高校理科乙類を経て昭和二年四月東京帝大文学部美術史科に入り、二年で退学した
 帝大入学後は新人会に入ったが理論闘争を排撃して神奈川の浅野ドックの人夫となり、先ず工場細胞として活動、三・一五事件で神奈川県特高課に検挙されたが釈放されるや、東京地方で細胞組織に当り、今回は関西を中心に党フラクションの再組織に奔走し昭和四年春モスクワから帰国した今本文吉、岩尾家貞等が本部から資金をもって来たのでこれにより活動を続けていた同人は変名多く検挙直前は大塩平八郎に自分を擬して大塩と名乗り代表的のものとしては神田哲夫がある、同人が思想的傾向を把握したのは住居が下町であった関係上土地の人が上町と下町に区別をつけたのを上町はブルジョアとして畏敬するに対し意識的となったものであると

 

犯行を悲しみ田中の母自殺 資産を特に田中に残して

愛人の閨秀作家中本たか子と共に小田急沿線祖師ヶ谷の隠れ家で逮捕された田中清玄の母愛子は夫幸吉に二十数年前死別してから北海道渡島国から函館市下町に転任、産婆を開業し二児を養育し女ながらも相当立派な生計を立てていたが清玄の兄が死去後同人の成長を楽しみにし東大文科にまで入学せしめたが、早くも左傾し母の許に音信もせず遂に今回の検挙により投獄さるるに至った一方、母親は愛児の将来を気遣い悲歎の余り「清玄が出獄してから遺産を渡して戴きたい」と縷々親心から綴った遺書と遺産約四万円を残し万事を知合の牧師に依頼した上昨年二月十日仕事に用うる昇汞水を嚥んで自殺を遂げてしまった

 

活躍した婦人党員

此の事件には婦人の活躍がかなり重要な役割を演じ屋内に在って炊事洗濯を初めレポとして街頭に進出する等活躍した

 

獄中で発狂 女給からプロ作家―中本たか―

女党員として首領田中清玄と同棲中検挙された女流作家中本たかは明治三十六年十一月十九日山口市後河原栗本小路一九八予備陸軍中尉幹隆(七一)長女として生れ山口高女卒業後大正十年十二月下関市王ノ江小学校に教鞭を執っていたが同十四年四月家出、昭和二年六月市外淀橋町角筈八五八文士加藤正種と同棲したことあり、別れた後自暴自棄となり四谷区永住町一三六大黒カフェー新橋一の八八カフェーキング、市外淀橋町角筈一カフェーツバメ等で女給をし転々放浪生活を続けていたが創作を発表して認められ一躍プロ女流作家となり婦人公論改造等に寄稿して作家生活に入る一方実際運動にも進み再生共産党中央部が確立するや婦人闘士として活躍しコンミンテルンより帰った岩尾家貞と同棲し妊娠した事もあり誰彼の見分けもなく懇ろになっていた、懐妊しているのを入獄後分娩させては危険だとの医師の診断により一時釈放堕胎手術をなし、同年十月二十七日再び市ヶ谷刑務所に収容されたが急激な生活変化のためか郷里や実家のことを甚しく心痛し毎日のように親許に宛てて通信する等只管罪償いをねがっている模様に見受けられ、本年二月精神上の打撃のためか遂に発狂したので現在は府立松沢病院の一室に収容され華やかな活躍時代も忘れたものの如く放心状態で悲惨な日々を送っている

 

故宇都宮大将の息 宇都宮徳馬

 田中、西村の首脳部をかくまい党の活動に尽力した一方に不敬不穏を極めた論文を作り不敬罪に問われた宇都宮徳馬は、市外渋谷町向山一七戸主で故陸軍大将宇都宮太郎氏の長男で二十六歳、長姉は明治天皇の侍従武官長だった木村中将の息に嫁いでいる、同人は府立一中を修了陸軍幼年学校を卒業したが、水戸高校に入り昭和三年三月卒業、京都帝大経済学部入学昨年六月退学した、同人は水高時代社会科学を研究し全日本学生社会科学連合会水高代表とし参加もしたが、京都帝大在学当時は京都合同労働組合等に関係を持っていた

 

入露して主義の研究 副首領の佐野博

赤坂のポントンで劇的逮捕を見た副委員長格の佐野博は大分県杵築町字上町文雄弟で二十七歳亡父は医師をやっていた、三・一五事件の大立物佐野学、故後藤新平伯の女婿で脳神経系統学の権威佐野病院長佐野彪太博士は叔父である
 大分県杵築中学二年の時東京錦城中学に転校七高を大正十四年卒業、翌年東大文学部社会科学に入学せんとし学校当局が入学を許可した時は既に入露していた、十四年十月、日本共産青年同盟に北浦千太郎の紹介で加盟十五年三月末高橋貞樹と共に神戸から浦潮を経て入露モスコウレーニン学校に入学、後東洋共産主義大学等で主義理論を研究同年五月ロシア連邦共産党員候補者に挙げられ学校細胞に当り其後正式に党員に推されたが、三・一五事件の大検挙があったため日本共産党再建の秘密命令をコンミンテルンより受け、同年十一月中旬モスコウ発浦潮着十二月上旬浦潮発厳寒のシベリヤを徒歩で露支国境を越え上海に入り同月二十八日夜帰京、巧みに所在を晦まし共産青年同盟のリーダーとなり四四・一六事件で検挙されたが間もなく釈放されその後は共青の責任者となってコンサモール運動を続けていたが田中、前納等と結び中央部首脳となり再建に尽していたものである

 

最年少者商大総長の息―佐野武彦

 佐野武彦は市外千駄ヶ谷八三四に生れ最若年者で東京商大総長佐野善作氏四男で市立一中四年から早稲田第一高等学院政経科二年在学中退学を命ぜられ、其後共産青年同盟に関係し昨年二月選挙当時ビラ撒きで府下北多摩郡谷保村青柳の自邸から検挙されたものである、尚お次兄英彦も弟同様運動に専心して検挙されるに至ったので父博士は二児が事件に連座したので教育者の立場からいたく恥じ近く商大総長を辞する筈であるといわれている

 

学生の地下運動 京大生以下百五十四名検挙され九名起訴―学生グループ事件

四・一六事件の検挙直後から再び学生間に左翼運動が地下的に画策され出し共産党下に活躍して居た京大学生の検挙が昭和五年二月一日以来五箇月間に亘って京都府警察部特高課の手により行われ其数京大を始め三高、同志社、府立医大竜大、同志社高商、同女専等の学生百五十四名に及び京都地方裁判所検事局は大阪検事局の応援を求め遂に九名(内一名中途死亡)の起訴を見た所謂学生グループ事件は二十日午後五時新聞記事掲載禁止を解除された、起訴された被告は左の如くである

 

起訴された者

京大経済学部二年
 長谷川茂 (二三)
京大経済学部二年
 寺尾一幹 (二四)
京大経済学部三年
 船橋正直 (二八)
京大経済学部三年
 山田新三郎 (二五)
京大経済学部二年
 山下良治 (二三)
京大文学部三年
 柳原豊 (二四)
京大法科三年
 香川信雄 (二五)
当時無産者新聞京都支局責任者
 草野悟一 (二三)

 

事件の内容

彼等は四・一六事件で壊滅後大学内に再組織を企て関西F・Sを組織し京大、三高、同志社大学、府立医大、竜大、同志社女専、京都女専、大阪では関大、外語、商大に連絡を取り又地方では四高、八高、姫路高校、広島高校、高知高校等にS・S会を組織せしめ教育政治組織の拡大強化各学校の時事問題及び左翼学生のストライキ指導をなし共産青年同盟の指導闘争形態を作り、関西F・Sの解体を声明し同年十二月初旬より共産党の組織下に入ったものである(京都電話)

 


データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館

 


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