「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

「風知草」について(宮本百合子)

2012-12-14 23:18:50 | 多喜二と同時代を生きた人々

「乳房」は一九三五年(昭和十年)三月に書かれた。発表されたのは中央公論四月号であった。
 たいして長い小説ではないけれども、この作品がまとまるまでにはいろいろ当時としてのいきさつがあった。そのいきさつのあらましは、一九三二年の三月下旬「日本プロレタリア文化連盟」にたいする弾圧があった時代にさかのぼって話されなければなるまい。それまでは「コップ」や「ナップ」で公然と文筆活動をしていた小林多喜二、宮本顕治その他の人々が、一九三二年三月以後はこれまでの活動の形をかえて、地下的に生活し働かなければならないようになった。わたしも一九三二年四月七日に検挙されて六月十八日ごろまで、警察にとめられていた。小林多喜二、宮本顕治は不自由な生活と活動の条件にかかわらずどこかでずっと無事に暮していた。同じ年の九月「コップ」の婦人協議会がそっくりつかまって、わたしはまた一ヵ月警察生活をした。
 

共産党の中央部が破壊を蒙った熱海事件がこの一九三二年十月にあり、そのころ共産党中央委員であった岩田義道が、検挙と同時に殺された。翌一九三三年の二月二十日に小林多喜二が築地署で拷問のために虐殺された。つづいて、野呂栄太郎が検挙され、このひとは宿痾の結核のために拷問で殺されなくても命のないことは明白であると外部でも噂されている状態だった。

 一九三三年は、日本の権力が、共産党員でがんばっている者は殺したってかまわない、という方針を内外にはっきりさせて行動した年であった。そして、一九二八年三月十五日、三・一五として歴史的に知られている事件のころから共産党の組織に全国的にはいりはじめていた警察スパイが、最もあからさまに活躍して、様々の金銭問題、拐帯事件、男女問題を挑発し、共産党員を破廉恥な行為へ誘いこみながら次から次へと組織を売っては殺させていた年であった。


 そういう兇猛な雰囲気のなかで、良人である宮本顕治が地下的生活をしているということはわたしに一刻も安らかなこころを与えなかった。常に不安があった。ほんとに寝ても、醒めても。その上、夫婦の愛情をおとりにし、運動に習熟していない妻であるわたしをとおして、宮本顕治をとらえようと計画する企図も試みられた。自分の愛を最もたえがたい方法によって悪用されまいとするだけにも、絶間ない精神と肉体の緊張を必要とした。

 一九三三年はこういう時期であった一面に、プロレタリア文学運動は最後的な紛糾状態におかれていた。林房雄その他の人々によって、それまでのプロレタリア文学運動の指導方針の政治的偏向ということが一方的に云いたてられ小林多喜二の虐殺によっておじけづいた人々が心理的にそれにどんどんまきこまれて行った。丁度ソヴェト同盟では前年に第一次五ヵ年計画を完遂した結果、これまでのプロレタリア芸術理論を発展させるような社会条件がそなわって来て、従来の唯物弁証法的創作方法を、社会主義的リアリズムにおしすすめた。その社会主義的リアリズムの創作方法の理論は、不幸にして日本につたえられた時期が、そういうプロレタリア芸術運動の潰走期であったために、忽ち、これまでの日本プロレタリア芸術運動の方針を否定する便宜な口実として逆用された。蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治などの、既に当時は公然とした文化の場面で討論する自由を失わせられていた人々の努力をひたすら否定し、抹殺することで自身の保身法とするために、ソヴェトの社会主義的リアリズム論が歪めて援用された。これは一九三三年六月に佐野学、鍋山貞親を先頭とする「転向」の濁流の渦巻きとともにあらわれた。その有様のあさましさは今日の想像しにくい毒気をまきちらした。
 もとより、一九三一――三年間の、日本におけるプロレタリア文化・芸術運動の方針が、それとしてきりはなして今日研究されたとき、指摘されるべきいくつかの論点があることは明白である。けれども、どういう社会現象も当時互に関連して動いていた諸事情の具体的な現実を綜合してしらべてみなければ、真実はつかめない。一九三三年代の所謂「政治的偏向」も、それに対する殆ど痙攣的だった保身的批判理論も、どちらも、十五年たったきょう顧みれば、日本の治安維持法の殺人的跳梁に影響された現象だった。当時の権力はまんなかに治安維持法の極端な殺人的操法をあらわに据えて、それで嚇し嚇し、一方では正直に勇敢だった人々を益々強固な抵抗におき、孤立させ、運動を縮みさせ、他面では、すべての平凡な心情を恐怖においたてて、根本は治安維持法に対するその恐怖心を、所謂指導者やその理論批判に集中表現させることで、進歩的戦列を崩壊させる手段としたのであった。
 きょうより考えれば、あれほど残虐非道な治安維持法を嫌悪し、恐怖し、抵抗を感じるのは、当然だったと思う。人間なら、ああいう非人間的暴力には精神的にも肉体的にも堪えがたいと感じるのはむしろ自然である。しかし、こんにちの私たちにとって、一つの深刻適切な教訓がこの経験よりくみとられて来る。それは、将来どんなことがあっても人民的な立場のすべての人々は再び一九三三年代の素朴な誤りに陥ってはならないということである。すなわち、権力が悪用しようとするすべての悪法への嫌悪と、それにあくまで抵抗してゆく民主的理論についてゆくことをこわく思う個人の心とを、ごっちゃにして歴史の前進と自身の運命を混乱させてはならないという教訓である。幸、この教訓は、きょうの人々の理性に生きた実感となって来ている。日本の、肉体で労働する人々、民主的作家をこめて精神で労働している人々が、一つとなって内外のファシズムと戦争に反対して立つ気風が顕著になって来ていることが、その証明である。
 さて、こういうように、日本の社会史の上でも画期的な規模と深さとをもってまきおこされた混乱に処して、わたしはおさなく、しかし純粋な憤懣で焼かれるしか心の表現の方法を知らなかった。一九三三年一月の『プロレタリア文学』に発表された「一連の非プロレタリア的作品」という論文と、そののち同誌に発表された自己批判の文章とは、当時の政治的文学的混乱の大渦巻をリアルな背景として見て、はじめてその誤謬をも理解することができる性質のものである。作品批評の表現をとっているけれども、これはわたしの生きて体を流れ貫いている血が信じるに足りない者であることを次々に示してゆく、かつての仲間に対して、人間として妻として抗議しずにいられなかった絶叫であった。だから、批評の対象とされた作家は度はずれな尺度でものを云われ、そのことでプロレタリア文学の理論そのものまでふみやぶられていて後に自己批判を必要とされた次第であった。
 一人の婦人作家がこういう荷にあまる歴史的な苦しさに焼かれて日々をすごしているとき、おちついたこころもちで、小説を書くということは不可能なことであった。おちつかないその心のままで書ける小説は発表され得なかった。「刻々」という題によって書かれた留置場生活の記録など。――それにもかかわらず小説はかかれなければならなかった。プロレタリア文学の方針が政治偏向で、小林多喜二のように作家を政治的な場面においこんで、才能を濫費させたという、本質的にはデマゴギッシュな団体内外の批判に対して事実で答える責任のある作家は一つでもいい作品を発表する必要があった。
乳房」の第一の原稿はこの時期に準備された。一九三三年の夏、わたしは、幾度か荏原の労働者地区にあった無産者托児所へゆきそのぐるりのお母さんたちの生活にふれた。職場の人々との会合の、字では書いておくことのできなかった記録を整理した。そして八九十枚まで、小説としてかきはじめた。
 ところが、それは小説にならなかった。当時の生活は、時間的に寸断されていた上に、一つの作品を完成させるに必要な作者の一貫した生活気分が合法生活と非合法生活との間にわけられていて、それ自身一つの客観な一つの世界としてかたちづくられなければならない作品はまとまらなかった。
 この小説の試みは中絶された。そして一九三三年の秋もおそくなってから「小祝の一家」という短篇小説がかかれた。夏の間にこころみられていた作品とは題材もテーマもちがっていた。当時文化活動に献身していた一人の同志の健気の生活から感銘された作品である。同じころ、創作のためには非常に無理だった条件のなかで、しかも小説をかく必要があったとき、佐多稲子が「進路」という一篇をまとめたことは、彼女の作家的閲歴としてもプロレタリア文学史にとっても意味ふかいことであった。一人の労働者の若者を主人公として、その家庭的苦境と職場での日和見的勢力との苦闘を、当時の一つの階級的現実として描いた作品であった。苦渋な、しかし真摯な作品である。
「小祝の一家」が雑誌『文芸』に発表されて程なく、一九三三年十二月二十六日宮本顕治は東京地方委員会のキャップをしていたスパイに売られて検挙された。
 一九三四年一月十五日にわたしも検挙され、六月十三日、母の危篤によって家へ帰された。母はわたしの顔をおぼろの視力でようように見わけ十五分ののちに絶命した。
 その一九三四年の十二月に、わたしは淀橋区上落合の、中井駅から近い崖の上の家に移った。たった一人そこに住んでいた作者の生活は、近所の壺井繁治同栄、窪川稲子、一田アキなどの友情で扶けられた。生活感情の全くちがう父の家の雰囲気では、そのころのわたしの妻としての心痛や緊張の思いが日常生活のうちに自然な発露を見出せなくてやってゆけなかった。
 上落合へ移ってからわたしは「バルザックから何を学ぶか」その他の感想評論をかき、やっと「乳房」をまとめることができた。父の家を出て環境が整理されたこともよかった。その年の十二月二十日すぎの或る夜、夕刊に、宮本顕治が一年間の留置場生活から白紙のまま市ヶ谷刑務所へ移されたというニュースが出ていたと、一人の友人が知らせてくれた。作者はそのとき、思わずああ! と立ち上って、殺されなかった! とささやいた。一年間の留置場生活の内容は、完全に遮断されている妻には一切しらされなかった。宮本の母さえも、警視庁で命ぜられたとおり自分が息子の顕治に面会した場所や健康状態については、沈黙を守っているという有様であった。
 さかのぼって考えれば一九三一年以来、はじめて、小説にうちはまってゆけるゆとりが作者の心に生じた。また一九三二年から前後三回に通計十ヵ月ちかい警察の留置場での生活を経験しなければならなかったこともそのころプロレタリア作家としてより深い階級的実感をもたらした。
 宮本顕治があのように不自由して獄外に生活していたころ着手して、未完成のままにおかれた「乳房」を(題はまだつけられていなかったのだけれども)宮本が生きて、これから先何年もそこですごさなければならない見当さえつかない未決にまわった記念のために、ちゃんとした小説に書き上げたいと思う熱意があった。そのために一ヵ月余、継続的に仕事をした。ある部分は数度かき直された。そして「乳房」と題をつけられ、中央公論四月号にけいさいされた。
 この期間、「乳房」を集注して書き終えたのは好機であった。なぜなら、わたしは、その五月十何日であったかに前年母の死去によって中絶された調べのつづきと称して検挙され、その秋に起訴され、翌一九三六年三月下旬まで未決生活に置かれたのであったから。この一九三六年一月三十日に父が亡くなった。わたしは五日間仮出獄して、葬式に列し、再び未決へもどった。二・二六があったのもこの年のことである。
「乳房」は、ある労働者街の無産者托児所の生活を中心として、東交の職場が各車庫別のストライキに立っていたころの動揺、地区のオルグとして働いている人物の検挙につれて、その余波が托児所にまでひろがって来る前後のいきさつを題材としている。テーマは、革命的な労働者は次々ひっこぬかれてダラ幹ばかりのこされた東交の中にでも、いろいろなやりかたでその活動を年中警察に妨害され苦境にいる無産者托児所の中にでも人民が自分たちの生活と職場を守り、権力とたたかってゆこうとしている意欲は決して潰滅しきっているのでないことを描こうとしたものである。主要な人物は無産者托児所の何人かのタイプのちがう女性たちである。主人公ともいうべき人物はその托児所の主任※[#「女+保」、70-5]母として働いているひろ子である。ひろ子の良人の重吉は革命的活動家として検挙され獄中生活におかれている。この小説に描き出されている様々の情景はすべて――東交某車庫の集会、托児所生活の雰囲気、市ヶ谷刑務所面会所の風景、特高警察の乱暴そのほか、みな現実のうちから作者としての生活的実感を添えて切りとられて来ている断片である。作者は、当時の社会現実をみたしていたリアルな諸情景を、人民の階級的能動性に加えられる暴圧とそれへの抵抗という一つのつよい歴史的テーマに統一して表現しようとしている。活動の安定を失いはじめている托児所へ出入するようになった臼井という、いかがわしい経歴の若い男が大衆の前に全身をあらわすことのできない党というものへの好奇心や畏怖やを利用して、未熟で正直な若い※[#「女+保」、70-13]母タミノを、意味深長なヒントで自分にひきつけようとしている過程、それに対するひろ子の不信と警戒の描写は、当時の各組織内に挑発者が侵入してゆく方法や女をひっかけてゆく方法の、小規模ながら一典型である。いろいろな組合わせで特徴のあらわれている会話の調子も、一九二八・九年ごろからこの作品のかかれたころまでの、左翼活動家たちのものの云いかたである。警察の特高と※[#「女+保」、70-17]母たちとの応酬も短いうちにティピカルなものを示している。重吉対ひろ子、臼井とタミノの対照で、階級的な愛情の問題にもふれられている。正面から階級闘争をとりあげているという意味で、この「乳房」は、正統的なプロレタリア文学の作品として、公表されることのできた最後の作品であったということができる。プロレタリア文化、文学団体は前年に解散してしまっていて、文学の面ではもうそのころ没階級的なリアリズム論が氾濫していた。武田麟太郎の市井的のリアリズムと、島木健作の凄みズムと亀井勝一郎その他の日本ロマン派と入りみだれていた。この「乳房」が、作家にとって数年をけみしながらいわばはじめて芸術作品らしいリアリティーをもって完成された作品であったと同時に、それが客観的には従来の意味でのプロレタリア文学の最後の一篇として存在したことも意味ふかいことである。
「乳房」は一般に好評であった。ただ、ブルジョア文学の読者の間には、わかりにくい、むずかしい、という批評があった。「乳房」に即して、このむずかしいという批評を分析してみると、それは作者の表現の到らなさというよりも、より多く当時公表された小説がめぐり合わせている検閲の制約によっている。『中央公論』へ発表されたときには、警察関係の部分にいくつもの伏字があった。そんな工合であったから当時運動に無関係に生活している人々の実感には、働きかけることの鈍いちょっとした暗示、うらがえしから表現されている技術。そういう点が、ブルジョア小説の言葉を惜しまず語りつくす手法になれた読者にむつかしい感じを与えた。また、「乳房」一篇のはじめから終りまで流れとおしている感情の緊張も、ブルジョア小説の緩徐調に配合されているところどころのヤマの緊張より、はるかに密度のたかいものである。その緊張に共感してゆくにつれ読者の心はひきしめられ、精神がしまってゆく。その感覚は、文学に習慣づけられていた有閑のくつろぎと反対な性質のものである。「乳房」は白昼の光線にてらし出された生活の上にリアルな闘いのいきさつが展開されているのである。一時の、クライマックス的事件のスリルの描写としてではなく。人民と権力との抗争と現実がこんにちにおいてもそうであるとおり、毎日、いろいろな形に細部を変えながら、しかしきのうよりきょうへ、そして明日へと根づよく断続されてゆく、そのリアリスティックな人民の幸福への闘争の精神が「乳房」の基調となっている。
「乳房」は翻訳されてソヴェト同盟から出版されている世界革命文学の選集に採録された。

        「風知草」について

 わたしがプロレタリア文学運動に参加したのは一九三一年一月のことであった。したがって、わたしは計らずも日本の人民生活のすべてとその解放運動がファシズムの波の下にひしがれはじめた時期と時を同じくして、その怒濤の下に身をさらすことになった。階級的作家として転換してから理論的にも創作能力においても未成熟のまま高波とたたかってゆかなければならなかった。一九三二年から一九四五年八月十五日までに、わたしがともかく作品を発表することのできた時間は、三年九ヵ月あまりしかなかった。一九三八年(昭和十三年)から三九年の半ばごろまで作品発表を禁じられていたわたしは、翌一九四〇年いっぱい精力的に執筆すると、次の一九四一年(昭和十六年)一月から再び作品発表を禁じられた。この禁止は、日本の侵略戦争の拡大にともなったもので、十三年の折のように、ある期間で、解かれるかもしれないという可能性の見えないものだった。戦争が終らなければ作品の発表禁止もとけないとわかったことであった。一九四五年八月十五日が来てもその年の十月に治安維持法が消滅するまでは、すべてのジャーナリズムがもとのプロレタリア作家の作品をのせることに躊躇した。これは、それまでの言論出版制圧が、どれほどひどい文化の萎縮をもたらしていたかということの証明になる。一九四六年一月にいち早く創刊・復刊された諸雑誌の創作欄が戦争協力作家でなくて、しかもプロレタリア作家でなくてポスター・バリューのある作家を求め、永井荷風へ一致して、その作品が各紙を飾ったのも、日本文化、文学史の特色をもつ一現象であった。あしかけ五年間、全く作品公表できなかったわたしは、一九四一年十二月八日真珠湾の翌日、戦争非協力の共産主義者として検挙された。一九四二年三月巣鴨の未決へ送られ、その年の七月二十日すぎ、熱射病のために危篤に陥って、帰宅した。不思議に生命をとりとめた。しかし、視神経、言語の神経、心臓と腎臓が破壊されて、視力恢復までに一ヵ年以上かかった。心臓と腎臓の機能障害は、こんにちわたしの健康上致命的な弱点としてのこされている。
 作者の立場は、自身が人民的であり戦争に非協力であるというばかりでなく、非転向で十余年の獄中生活を送っている共産党員である良人の妻であるという客観的事情から決定されて、権力との妥協点がなかった。一九四〇年(昭和十五年)十月に執筆した「朝の風」一篇は、もうこの作者が、小説としてかきたい主題は書くことのできない社会的情況にまで軍事統制が進んでいることを明瞭に示した。客観的な意味で、書きたいテーマはかけなくなっていた。出征という一つの客観的事実を扱っても、それは人間が平常の状態を失いつつある生活現実であってはいけなかったのだから。――出征は勇躍万々歳でなければならず、人民のつつましい生活の中から働く男、経済の支柱が奪われてゆくに際しての家族たちの限りない不安。夫婦、親子、兄妹の愛さえも、それは天皇と国家への捧げものと見られなければならず、そこには別離の愛惜と生命への不安と絶対的な権力への疑問抗議は、当時の日本人の心に存在してはならなかったのであった。
 作者は、五年間の強いられた沈黙をむしろ必然なものとして感じるようになった。主観的にわるあがきする余地さえ対世間的にはのこされていなかった。獄中のひとのための公判準備、その公判の傍聴、毎日数頁ずつ書き送る手紙。防空壕へ出たり入ったり。炊事。断続する読書。そういう風に五年が経過した。
 一九四五年の八月十五日が来た。その年の六月下旬に無期懲役を宣告されて網走に行っていた宮本顕治が十月十四日に風呂敷包を下げ、素頭で、草履ばきで東京のわたしがいた弟の家へ帰って来た。この八月十五日から十月、十一月、十二月とみつきの間に展開された全生活の変化は、作者の一生にとって二度とあり得ない大転換の刻々であった。生の活気とよろこび、勇躍が、女として、作家としてのあらゆる面に照りわたって、はめられている格子の敷居ぎわまでつめよって、その格子に顔を押しつけて開くのを待ちかまえていた精神と肉体とがいっせいに解きはなされた。
 そのすべてを押しながすような溢れる心でわたしは一九四六年一月――七月の間に「播州平野」を書き上げた。九月――十一月は「風知草」をかき終った。
 この二つの物語こそ、一九四五年八月十五日以後の新しく生きようとする日本のしののめのうちに響いた人間の甦りの声々であった。
 日本の男も女も何と苦しく抑えられ息さえ胸いっぱいにはつけずに生きて来たことであったろう。戦争が終りファシズムの兇暴な権力がくずれ、そして、治安維持法が消滅したという歴史的な事実。そのように入りくんだ歴史のひだごとに、一人の女、一人の妻、一人の婦人作家としての悲しみとよろこびが折りたたまれて来て、いま解放が来た、ということは、わたしに「風知草」をあのような作品として書かせずにおかなかった。その法律で多くの人の生涯をめちゃめちゃにして来た治安維持法一つが消滅したら、二十六歳の年から十二年間未決におかれ、最後にはいくつものこしらえあげた罪名を蒙らして無期懲役を宣告されていた一人の革命家の心と体から、すべての鎖と枷とがいちじに落ちてゆく光景はそのひとの無垢を信じてその歳月をともに暮した妻である、作者にとって平静に眺めるには堪えがたい壮観であった。
 共産党が合法政党として立ちあらわれ、代々木駅ちかくのうすよごれたコンクリート建物のがらんとしてまだ人気も少い入口の柱に、アカハタ編輯局という貼紙が出された。やがて、おかしな字で日本共産党と大書した板の看板がその入口の上にかかげられた。それは作者をうれしさで笑顔にし、同時に、日本の人民がはじめて公然と革命的政党を持つようになったという歴史の新しい一事実でもあった。
 一九四五年八月十五日以後、日本には、それぞれの人の心にそれぞれの形で歴史的な内容をもつ歓喜と悲哀の感動が流れわたった。そして、そのさまざまな度合いと色あいの激しい悲喜の思いこそ、その人々が気づくと気づかないとにかかわらず、「風知草」という一篇の小説の世界をつらぬいて流露された歓喜と悲哀に通じるものであった。悲しさも、歓ばしさも、そのすべてが人民として共通に生きぬかれた野蛮な歴史の暴威と崩壊。新しく心ごころに感じられはじめた生の甦りの感覚として。
「風知草」については、先ずその題のよみかたが、ふたとおりになっている。「ふうちそう」とよむよみかたと「かぜしりぐさ」と読むよみかたと。作者は「かぜしりぐさ」とよむことは知らなかった。夏の夜店の植木屋の葭簀ばりのそばで青々と細葉をしげらせたその鉢植を買ったとき、植木屋はそれを「ふうちそう」とよんだ。わたしは、ああ、そのほっそりした葉がかすかな風の渡るときにもそよぐからだろうと納得していたのだった。二三年たって、同じ草の鉢がさし入れられて、巣鴨の蒸し釜のような女舎のせまい板じきにおかれた。その三畳の室は風通しというものが全くなかった。暑気に喘ぎながら、わたしはその細い葉の一端でもそよがせる微風――といわないまでも空気の動きを求めた。しかし、その細い青いむら葉はわたしがその室の中で昏倒してしまうまでそよっとも動くことがなかった。さし入れ通知の紙に、ふうち草鉢植一とかかれていてわたしはその下に、赤いにくで爪印をおしたのだった。そういういきさつから、作者のこころもちは「ふうちそう」としてしかあの夜店の草を思い出すことができない。
 風知草の主要な人物は重吉とひろ子という夫婦である。重吉が思想犯として十二年暮していた獄中生活から一九四五年十月十四日に解放されて家庭へかえり、良人としての生活をはじめると共に直ちに共産主義者としての活動へ入ってゆく。ひろ子は「乳房」の女主人公と同じ名をもっているけれども、彼女はこの作品では※[#「女+保」、76-1]母ではない。階級的な立場にたつ婦人作家としてあらわれている。重吉とひろ子とは、様々の波瀾を互にしのいですごした十二年ののちに、はじめて一つ家に、結婚の歴史はもう旧いけれども、互が互を感じ合う敏感さでは真新しい夫婦として生活をはじめる。その特殊な条件をもつ短い時期のうちにおこった一つ二つのエピソードを中心として、この作者の全心から流れ出す初々しい生の感覚と愛の諧調で全篇がつらぬかれている。おのずからなる抒情的でメロディアスな筆致は、わたしの作品の全系列の中にあっても類の少い位置をこの作品に与えている。
 風知草は、絵画で云えば、一篇のクロッキーであると云ってさしつかえない。クロッキーはデッサンではない。クロッキーにおいて細部は追究されず、しかし流動する物体のエネルギーそのものの把握が試みられる。次の瞬間もうそこにはないその瞬間の腕の曲線、頸の筋骨の隆起、跳躍の姿がとらえられる。だが、そのうちに、ダイナミックに自然法則はとらえられる。「風知草」はやわらかいクレパスで、暖かい色調の紅い線で描かれた人生の歴史的時機のクロッキーとも云える作品である。省略され、ときには素早い現実の動きをおっかけた飛躍のあるタッチで、重吉とひろ子という一組の夫婦が、一九四五年の日本の秋から冬にかけてのめをみはるような時期に生きた錯雑がとらえられている。そこには特殊であって、また普遍性をもついくつもの課題が閃いている。たとえば「後家のがんばり」というこの小説の世界にとって重要なモメントとなっている女性の生活闘争の傷痕の問題や、プロレタリア前衛党が再結集されてゆく過程及びその階級活動全般における各種の専門活動の関係とその評価についての問題。日本の監獄が治安維持法の政治犯と云っても非転向の共産主義者をどう扱ったかという歴史的事実の片鱗も描き出されている。そして、これらのことは「風知草」以前にはあるとおりの率直さで書くことのできなかった人民の歴史のひとこまである。「後家のがんばり」という簡明な要約で「風知草」にとりあげられている一つの問題は、ひろ子ひとりに関する心理の問題ではない。たとえば、佐多稲子の「くれない」という小説の女主人公の苦悩の根底にも潜んでいる問題である。しかし、治安維持法があり、現実が現実の内容のままの素直さで語られ、追究され解明されることの不可能だった時代にかかれた「くれない」で、佐多稲子は「思いあがり」という自責的な表現でうらから後家のがんばりに不十分に触れてゆくしかなかった。「思いあがり」という自責的なひとことのなかに、女として作家として積極であった多くのプラスをのみこみながら。戦争とファシズムの力とで人間はどんなに非人道的に扱われて来たかということについて、そのような権力への抗議として少くとも「風知草」の世界が語り得ている程度にさえ、語った小説は十数年間の日本にあることが出来なかった。「風知草」が柔かな紅い色の曲線で描かれたクロッキーであり、その主調がひろ子の愛の情であるにしろ、そのような愛の流露が可能とされている歴史の過程と一貫した階級的な立場の本質は、たたかいとられた生の肯定その発展として作品の隅々にまで鳴っている。「風知草」の抒情性には、平穏に巣ごもった男女の恋着のなま暖かさはない。大きく暗くおそろしい嵐がすぎて空ににおやかな虹のかかったとき、再び顔と顔とを見合わせた男女が、互の健闘を慶び、生きていることをよろこび、そのよろこばしさにひとしお愛を燃えたたせる姿がある。すがすがしい一種の革命的リリシズムがある。「風知草」はその描線にいかようの省略があろうとも人間云いならわした愛という言葉、よろこびという言葉、またその歎きに、どのように生新な歴史の質量がうらづけられてゆくものかということについて省略していない。大らかな虹の光りの下に立つ愛の歓喜が心情の純粋に重吉とひろ子とのものであって、しかもそのまじりけなさにおいて決して、二人だけのものではないという人間の実感を省略してはいないのである。「風知草」は、その小説としての存在そのものによって文学の可能がわれわれの社会的自由の可能とどんなに一体のものであるかということについて語っている。文学の可能の拡大をもたらすわたしたちすべてのもの、社会的な自由の拡大こそ、人間の愛の豊富さを可能とすることをも語っている。
 民主主義の文学は、日本の人民的民主主義革命の課題をその具体的な諸相で描きつつそのことによっておのずから過去の日本の文学からの成長を課題としている。この大きな歴史的な課題は、それぞれの民主的な作家によって、それぞれの地点と角度から、それぞれの色あい度あいによってはたされてゆくであろう。「風知草」「播州平野」「二つの庭」「道標」それにつづいて執筆されつつある一九四五年以後の作品は、その作者が、自身の必然に立って民主的文学の課題にこたえようと試みているものである。
「風知草」は「播州平野」とともに一九四七年度毎日文化賞をうけた。

〔一九四九年二月〕

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