goo blog サービス終了のお知らせ 

「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

1932年8月27日 アムステルダム国際反戦大会

2009-08-27 02:53:52 | takiji_1932
小林多喜二が反戦小説「党生活者」を書きあげて二日後、オランダ・アムステルダムで国際反戦大会が開催された。


この反戦大会は、作家のロマン・ロランやアンリ・バルビュス、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらの呼びかけによって開催された。

38カ国から2196人が参加した。
翌33年6月には、パリのプレイエル会館で第2回大会が開催されるように、この世界での反戦運動のうねりは、「アムステルダム・プレイエル運動」と呼ばれ、その後反戦反ファシズムの大きな運動として発展した。

日本からは片山潜が発起人として参加したほか、多喜二「一九二八年三月十五日」「工場細胞」「オルグ」のドイツ語版翻訳者・国崎定洞もベルリン日本人反帝グループの代表として参加していた。(国崎は、その後、9月4日に片山潜の招きでモスクワに亡命し、コミンテルンでの片山の秘書として活躍するものの、ソ連での5年の生活ののち、1937年8月4日に山本懸蔵のねつ造した「スパイ疑惑」によって逮捕され、12月10日に銃殺され、いわゆる「スターリンによる粛清事件」の日本人犠牲者の一人となる数奇の道をあゆむものとなる。)

 この大会の前月の年7月5日、「三・一五、四・一六」事件の被告197名に死刑1、無期3、その他通刑1,022年の求刑が行われたことに対して、同国際反戦大会で片山潜の提唱によって抗議が送られるなどしたことは注目に値する。

ともあれ、小林多喜二は反帝同盟執行役員として、この大会で設置された国際反戦委員会の提唱による極東反戦会議(上海反戦大会)に呼応して、小説創作だけではなく、実際の反戦運動の組織的運動家としても奔走することになるのである。


極東反戦会議(上海反戦大会)発会式は1933年9月2日、右翼団体の激しい妨害のなかで行われた。発起人となったのは秋田雨雀・江口渙・佐々木孝丸・水野広徳・加藤勘十等ではある。しかし、同会は警視庁に襲撃され、布施辰治・江口・加藤らが逮捕された。

《赤旗》は当初、この運動を支持していたものの、後には〈小ブル平和主義〉的運動として批判に転じた。
〔参〕『秋田雨雀日記』2巻、(1965)⇒1932[国]8.27.


当時すでに、スターリンとトロッキーの対立は公然たるものであったが、トロッキーもこの反戦大会には大きな関心を寄せていた。

トロッキーは、スターリニスト官僚が、平和主義者や改良主義者とともに反戦大会を開こうとしていることを批判した「反戦大会に関する手紙」で、
「スターリニスト官僚は、ドイツでは、改良主義者とのあらゆる統一戦線に反対しながら、国際的舞台では、ロマン・ロランやバルビュスを前面に立てる形で腐った統一戦線政策を進めようとしている」と批判した。

私はその批判的な内容よりも、そこで触れられているロマン・ロランやアンリ・バルビュスの活動の姿とともに、当時の日本に触れている部分に注目したい。

「記録文書および会議資料」(極東反戦大会コミンテルン第13回執行委員会総会)『資料集 コミンテルンと日本〈3(1933~1943)〉』 は未見。
 

極東反戦会議(上海反戦大会)発会式(1933年9月)に参加した・水野広徳について、
前坂俊之「忘れられた反戦の軍人・水野広徳」(2004年7月)は以下のように記している。

●「戦を好むものは皆亡ぶ」
一九三三年(昭和八)八月、「極東平和友の会」 の創立総会が開かれ、水野も出席たが、この会は右翼の妨害によって途中で中止になった。
 このてんまつを書いた『僕の平和運動について』という小冊子の中で、水野は「日本は今、世界の四面楚歌裡にある。いずれの国と戦争を開くとも、結局、全世界を相手の戦争にまで発展せずにはやまないと信ずる。日本の軍部の鼻息がいかに強烈でも、全世界相手の戦争の結果が何であるかは想像に難くない。世に平和主義者をもって、意気地なしの腰抜けとののしるものがある。テロ横行の今の日本において、意気地なくして平和主義者を唱え得るであろうか」
 時流に棹さし、きびしい平和主義、軍縮の為に自己の信条を貫いていた水野の無念さがにじんでいるが、この文章の最後に「悠々子、知己雀百年の後に待ち」との句がある。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿