『三田学会雑誌』vol.104 No.1(2011.4)p131-142
寺出道夫 「31テーゼ草案」と「32年テーゼ」に関する談話
※これは宮川寅雄の談話を記録した資料だ。
党は「三二テーゼ」に基いて党の意思を統一し組織を確立すべく全国協議会の開催を決定、九月にその召集を通知した。各専門部毎に「テーゼ」を作成、持参することになった。
予定は十月三十日熱海。所が党内に松村のようなスパイがいたために挑発に乗ぜられ、十月、川崎銀行ギャング事件を仕出かし、さらにスパイの手引きにより、各国(各県または全国か)の主要メンバーが一堂に会する熱海には警察の網の目がはられていた。
十月三十日には主脳部の大半が検挙され、残ったのは宮川、児玉、源五郎丸、田井で、宮川が担当したいた専門部組織である『赤旗』編集局、農民部、AP部(宮本、野呂、渡辺多恵子、秋笹政之輔、辻(小林多喜二))い゛あった。この四人からなる中央部も、十二月一日、牛込で再建のための会合をする時に一斉検挙にあった。以後AP部に所属した人々を中心にして、中央部が再建されたのであった。
アジプロ部での多喜二のパーティネームは「辻」であった。このペンネームには覚えがある。「辻君子」だ。
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