「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

須山計一「作家・共産主義者として」 1933年5月

2010-02-26 00:28:49 | takiji_1932
その後彼が去年の春もぐる迄、小林とはちよい/\顔を合した。彼が阿佐ヶ谷の家へ移つてから時々尋ねる機会があつたが、それ以外は何かの大会だとか演説会だとか又は停車場のホームなどだつた。
 阿佐ヶ谷の家で会つた彼は八畳の部屋の西側のヘリに一杯本を並べ真中へ小さい机を持ち出してしきりに小説や文章を書いてゐた。この殺風景な部屋で目立つたのは五十号程の港の風景を描いた油絵がかゝつてゐた事だ。
「この絵は二科を落選した絵だが船があるから好きなんだよ」と彼は非常に気に入つたやうだ。
「この頃はあんまり忙しいんでつい忙がしいのが面白くなるネ。」とか「昨日は三十人近くの人に合つてその序に小説を五枚程事き上げたんだよ」などゝ喋つて元気一杯で笑ひ乍らニユースや雑誌を風呂敷へつめ込み時計と見て飛び出して行つた。作家同盟の書記長としての彼は文字通り席の暖まる暇もなかつたのだ。
 その頃の事であるがヤツプで出した「反戦絵本」の出版費のヤリクリの為に彼から十円だけ借りた事があつた。その後二三週間立つて五円だけ返へしに行つた。
 彼は不思議さうに
「ほんとうに借りたんだね」と笑つて受とつた。

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