「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

1933年3月10日 手塚英孝

2010-03-05 19:02:52 | takiji_1932
当時26歳の手塚英孝「一労働者」名で、『大衆の友』多喜二記念号外(1933・3・10)に
「同志小林多喜二を憶う」。

――「同志小林は、実に断乎とした撓むことを知らぬ、溢るるばかりの戦闘的熱意とを持った真にボルシェビーキー典型だった。/私が彼に初めて会ったのは一年許り前である。実を云うと私はこの勝れた人物を想像して何か堂々とした紳士(?)を思い浮べていたのであるが、会ってみると彼は丸切り予想とは違った小男だった。私は初めは人違いではないかと思ったが、直ぐその事を話して大笑いをした。」「同志小林は既に居らぬ。併し彼の偉業、彼の流した血は、幾千万の労働者、農民の血潮となり、プロレタリアの旗になるであろう。」と結ぶ。


手塚英孝の『新装版 小林多喜二』が刊行されてほぼ一年経つ。
親交の深かった詩人の土井大助氏は、刊行当時以下の書評を掲げた。




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小林多喜二と手塚英孝/新装版『小林多喜二』刊行を喜ぶ/土井大助



●弾圧と戦禍の無二の盟友/戦後の全集編さんが今に生きる

 小林多喜二虐殺の直後、彼より三歳若くなお地下活動中の手塚英孝が「一労働者」名で、『大衆の友』多喜二記念号外(一九三三・三・一○)に寄せた「同志小林多喜二を憶う」はこう書き出されている。
 「同志小林は、実に断乎とした撓むことを知らぬ、溢るるばかりの戦闘的熱意とを持った真にボルシェビーキー典型だった。/私が彼に初めて会ったのは一年許り前である。実を云うと私はこの勝れた人物を想像して何か堂々とした紳士(?)を思い浮べていたのであるが、会ってみると彼は丸切り予想とは違った小男だった。私は初めは人違いではないかと思ったが、直ぐその事を話して大笑いをした。」

 当時二十六歳の手塚さんは、三一年四月『ナップ』に処女作「虱」を発表してプロレタリア文学運動に参加、多喜二最晩年の懸命の活動をともにしていた。この追悼文は、「同志小林は既に居らぬ。併し彼の偉業、彼の流した血は、幾千万の労働者、農民の血潮となり、プロレタリアの旗になるであろう。」と結ばれている。


●禁書・資料散逸困難のなか献身

 戦中、多喜二の文学はすべて禁書。資料も散逸を免れず、関係物故者もあいついだ。手塚さんが「小林多喜二の編纂に専心することになった」のは、敗戦翌年の八月ころ、宮本百合子に全集の仕事をうけもつようにいわれてからだ、という。「小林多喜二は、ふかく心にきざまれている私には師友のようななつかしい間柄だった。長年の弾圧と戦禍の直後ではあったし、容易なことではないとは思ったが、数年間、私はこの仕事に心身をうちこもうと決心した。そのときには、その後半生の仕事になろうとは思いもしなかった」(「二人のお母さん」)。こうして、各地を回っての資料収集・整理・照合から編集・刊行まで、実務とその指導に手塚さんは献身し、多喜二全著作の復元を果たした。加えて綿密な評伝「小林多喜二」の執筆。手塚英孝なしに、今日の「蟹工船」ブームはありえなかっただろう。
 
新資料の発見、新事実の発掘があれば、その確認と伝記の改訂も喜んで重ねた。作品でも、「蟹工船」の原稿(全編十章中四章まで)発見のとき、たまたまぼくは赤旗文化部記者として、それが全集刊行委員会の壷井繁治宅に届けられるときき、提供者に取材した。原稿の筆跡鑑定は、数多いノート稿まで幾度も通読してきた手塚さんの確認によった。結果多喜二直筆と確認され、定本全集のその巻は原稿通り改訂のうえ刊行されたのである。

 評伝でも「党生活者」のモデル工場名、奈良の志賀直哉訪問の時期、「オルグ」執筆の温泉宿の地名など、新日本新書版中で誤記とされた部分はその都度厳密に補訂された。



●学習と社会活動「ぼくの北極星」
 
「『定本・小林多喜二全集』発刊にあたって」、手塚さんはこう書いた。「弾圧と、戦争による荒廃の二重の困難をうけながら、戦後、全集編纂の事業がうけつがれた。資料集成の仕事をつうじて、なによりもつよく感銘をうけたことは、小林多喜二の業績にたいする日本人民の支持と共感がいかに深く、根づよいものであるかということであった」と。そういう気運の後押しがあったからこそ、数年どころか八一年末急逝されるまでの三十数年、多喜二全集編纂と評伝「小林多喜二」執筆・補訂に精魂を傾けられたのである。
 
珠玉の短編を遺しつつ寡作の人と惜しまれた手塚英孝は、無二の盟友の評伝を、生き残ったわが仕事として引き受け、文学史上稀有の伝記文学を成立させた作家である。とりわけ、巻末の「回想」は一編の実話小説とも読める。そこには当時の青年革命家たちの不屈な奮闘ぶり、元気で陽気に互いを愛称で呼びあう若々しい人間関係が活写されている。

 遅まきでなお初歩的なぼくの多喜二研究は、手塚さんから直接頂戴した新書判『小林多喜二(上下)』に徹頭徹尾依拠しつつ今日に至った。その本はぼろぼろに傷んでいるが、手放せない。評伝『小林多喜二』は、ぼくの多喜二学習と社会活動の「北極星」である。その新装版の刊行は嬉しい限りである。
 (どい・だいすけ 詩人)( 2008年09月23日,『赤旗』)

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