「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

反戦詩人・槙村浩の足跡(高知市)「朝日新聞」高知版2012.5.22

2012-05-26 23:26:45 | 多喜二と同時代を生きた人々

反戦詩人・槙村浩の足跡(高知市)

2012年05月22日

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平和資料館・草の家には、槙村の12歳のころの写真や、代表作が発表された雑誌が所蔵されている=高知市升形

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           槙村 浩

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 北の多喜二、南の槙村浩(こう)――。小説「蟹工船」の小林多喜二と並び称されるプロレタリア文学作家が、戦前の高知にいた。3年2カ月の獄中生活をへてもなお反戦の信念を貫き、精神と肉体を患って26歳で逝った。長い間、故郷高知にさえ忘れられた存在だった。6月1日の生誕100年を前に、その足跡をたどった。

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高梁(かう・りゃう)の畠(はたけ)を分(わ)けて銃架(じう・か)の影(かげ)はけふも続(つづ)いて行(ゆ)く
銃架(じう・か)よ、お前(まへ)はおれの心臓(しん・ざう)に異様(い・やう)な戦慄(せん・りつ)を与(あた)へる――血(ち)のやうな夕日(ゆふ・ひ)を浴(あ)びてお前(まへ)が黙々(もく・もく)と進(すす)むとき
お前(まへ)の影(かげ)は人間(にん・げん)の形(かたち)を失(うしな)ひ、お前(まへ)の姿(すがた)は背嚢(はい・のう)に隠(かく)れ
お前(まへ)は思想(し・さう)を持(も)たぬたゞ一箇(こ)の生(い)ける銃架(じう・か)だ

(「生ける銃架」から)

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 兵士を、銃を立てかけておく「銃架」にたとえたこの詩は、満州事変翌月の31年10月に作られた。槙村が通った高知市立第六小学校の隣にあり、戦時中の資料を展示する「平和資料館・草の家」(升形)館長の岡村正弘さん(75)は「戦争は人間を魂のない存在にしてしまうというのがこの詩の意味だと思う。槙村は鋭い感性で市民にとって戦争とはなにかという本質を見抜き、告発した」と話す。

 同館では、槙村の写真や詩集など約40点も並べる。高知の平和運動の旗手だった初代館長の西森茂夫さん(2004年没)の「遺言」だった。西森さんは亡くなる前、病床で岡村さんの手を握り、こう繰り返した。「槙村浩をやってくれ。人に知られちゃせんきに」

 草の家の学芸員、藤原(ふじ・はら)義一(よし・かず)さん(65)は、大学1年のときに槙村の詩集に出あい、「詩で戦争に反対した人がいた」ということに驚いた。そして、「槙村みたいに生きなければと思い、人生が変わった」という。在学中はベトナム反戦運動に参加。5年前の退職を機に、槙村が通いつめた県立図書館などで高知の戦争中の軍事施設について調べている。

 図書館の北隣、県立文学館の学芸課長津田加須子(か・ず・こ)さんは、「槙村の詩は気持ちを率直に書いている。いま読んでも、時代状況や心の葛藤が分かりやすい」と解説する。今夏から、槙村の原稿も常設展示する予定だ。

 映画会社「四国文映社」代表の馴田(なれ・た)正満さん(64)は大学時代、先輩に連れられて槙村の墓を訪れた。「厳しい弾圧下でも自分の生き方を通した姿勢に共感した」と振り返る。

 墓は平和町の丘の中腹にあるが、戦後長く忘れられていた。同郷の作家・土佐文雄が槙村の生涯を描いた小説「人間の骨」(66年)は、土佐が鎌を手に林に入り、槙村の墓を探す場面で始まり、「孤独に耐えていた彼の墓をついに見出し」「私の目から涙がふきこぼれた」と記す。関係者らの手で69年に建てられた墓碑には、「反戦革命の詩人 槙村浩墓」と刻まれる。

 槙村の代表作は、長編詩「間島パルチザンの歌」(32年3月)だ。中国東北部の朝鮮族が多い地域で抗日運動をする朝鮮人の思いを歌う。

     おゝ
     蔑すまれ、不具(かたわ)にまで傷づけられた民族の誇りと
     声なき無数の苦悩を載せる故国の土地!
     そのお前の土を
     飢えたお前の子らが
     苦い屈辱と忿懣(ふん・まん)をこめて嚥(の)み下(くだ)すとき――
     お前の暖い胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
     うなだれ、押し黙って国境を越えて行くとき――
     お前の土のどん底から
     二千萬の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!

 この詩の碑が城西公園に立つ。槙村を慕う市民が73年に製作したが、建立できる場所が見つからず、浦戸湾に近い高知市横浜に長く置かれていた。現在地に移されたのは89年のことだ。公園は槙村が収監されていた高知刑務所の跡地でもある。

 歌碑の建立や移設にかかわった詩人で「槙村浩の会」会長の猪野(い・の)睦(むつし)さん(80)は、「長い間疎外されてきた槙村を市民の懐に抱かせてあげたくて、街の真ん中に移したのです」と言う。(竹山栄太郎)

 ◇槙村浩◇ 本名吉田豊道。1912年6月1日、高知市廿代町で生まれ、第六小学校4年のとき、その博識ぶりが地元紙に「天才児」と取り上げられた。旧制海南中学校では軍事教練に反対。白紙答案を出す運動を束ね、放校された。20歳を前に本格的に詩作を始め、社会主義運動にも参加。32年4月に治安維持法違反で逮捕され、3年2カ月の獄中生活を送った。非転向のまま出所したが、獄中で患った拘禁性の躁鬱(そう・うつ)病と食道狭窄(きょう・さく)症がもとで、38年9月3日に亡くなった。


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