明治天皇の初の北海道行は、明治9年7月16日。お召し艦「明治丸」で、函館入りしたのだった。
近代日本の出発となった明治維新となっても東北では戊辰戦争・北海道ではまだ内戦が続き、榎本武揚らの抵抗は明治2年5月18日の五稜郭落城まで続いた。 これによって「北海道」がようやく誕生したのだった。
日本国内が落ち着いた明治8年に、明治天皇の奥羽巡幸計画が策定された。天皇は、それまでにも中国、西国などのご巡幸、あるいは横浜、横須賀、千葉、箱根などへの行幸など、精力的に地方視察を繰り返されたが、東北地方へ足を伸ばすのは初めてであった。
計画によると、福島、仙台、盛岡、青森といういわば東北幹線を巡幸ののちお召し艦に乗船、函館港に仮停泊ののち帰京というスケジュールだった。
この日程表を見た開拓使の役人および函館住民は、なんとも腹の虫がおさまらない。故郷を捨てて北海道へ渡り、開拓の業にいそしんできたのも、もとはといえば国のため。お召し艦が函館港に寄るのなら、ぜひ天皇に上陸を願い開拓の成果をご覧いただこう。こうして天皇誘致の騒ぎがはじまった。「新政府発足いらい身を粉にして北海道開拓にあたり、その成果あって今日の北海道が築かれた。それにもかかわらず、せっかく函館にお召し艦が寄港するのに、上陸されないとはなにごとか」との抗議の声の広がりに、宮内省ではこの請願をうけて、天皇の巡幸日程を急遽再検討した。
この結果、明治9年7月16日午後1時30分、快晴の函館港に、天皇のお召し艦である明治丸が入港。 このとき函館港には、まだ桟橋がない。そこで天皇もお召し艦からボートへ乗り移り、税関波止場から北海道への第一歩をしるしている。
民家はすべて国旗を掲揚し、遠近の住民たちは御通輦を拝観するため群集し、御通路の両側は立錐の余地もなく、御通輦にあたっては謹んで脱帽立礼し、中には感極まって涙を流すものもあったという。
翌7月17日は、朝6時30分に行在所を出発、函館裁判所をご訪問。裁判所では、当時の事件発生数、解決件数などの報告を受け、民事下調所では、実際に被告人の取り調べ風景をご覧になっている。さらに「断獄庭では犯人宣告をご覧」とあるから、法廷で刑の宣告にも立ち会ったという。
その際、案内した判事が、「まだ拷問廃止のお達しはないが、すでに現在は廃止同様で、拷問場所も刑具も片付けた」とご報告したところ、天皇はぜひ見たいと希望された。そこで拷問道具を取り出して、拷問の方法などを詳しく奏上したという。
そして、再び明治天皇が北海道の地を訪れるのは、明治14年8月29日のことだった。
青森港を出港した明治天皇の乗艦最新鋭「扶桑」は予定に遅れること9時間。嵐に翻弄され、進むも引くもままならないキリモミ状態の中で、苦闘を続けて午後5時、ようやく。小樽・手宮港に錨を降ろした。
9時間の遅れは、小樽での予定された行事の一切を割愛させ、天皇はただちに手宮桟橋から「お召し列車」開拓号に乗り、およそ10分走って煤田(炭鉱)開採出張所に設けられたお休み所で休憩。再び開拓号に乗り込んで小樽を出発したのは、午後6時40分であった。このときの機関車は「義経号」。列車は9両編成で、ちょうど真ん中にお召し車が連結されている。幌内鉄道はじまって以来の大編成であった。
以後、明治天皇の北海道行幸は絶える。
小林多喜二が生まれたのがその27年後の明治36年、一家をあげて北海道に渡るのは明治40年、この地で小林多喜二は勉学し、青春期を過ごし、その近代日本の矛盾の結節点となった北海道を生きる人々の風雪のあゆみを描き、その生き様を描いた結果、昭和8年、特高警察によって拷問惨殺される。
昭和天皇の北海道行幸が実現するのは、多喜二が殺されて3年後の昭和11年のことだ。
明治天皇行幸が、明治維新後の平定、開拓振興、慰撫を目的をとしていたが、昭和天皇の行幸は直接に軍事目的だった。
昭和10年12月23日、北海道庁は陸軍省から、来年秋に北海道で特別大演習を行うという連絡を受け取った。
日本と中国の国情が悪化しており、さらにソ連の中国進出が懸念される状態にさしかかっていた。北海道という舞台は、大陸の実戦場に擬せられたのである。参加部隊は満州で野戦の経験をもつ第7、第8の両師団であった。
昭和11年の北海道特別大演習は日本史に記録されるべき大規模軍事演習であり、これから始まるであろう本格戦争を前に、実戦の規範となるものであった。天皇はこのとき、大元帥として演習を統監した。
行幸と大演習を安全に守るための特別戸口調査は、全道市町村にわたって実施された。9月10日までに報告された要警戒者は3744人にのぼる。その内訳は精神病者2348人、刑事要警戒者451人、伝染病患者111人、癩患者38人、その他796人となっている。
これと同時に行われた物的対象調査でも、大変な数が押収あるいは没収されている。拳銃が1056挺、短銃26、仕込銃54、仕込刀980、ダイナマイト643、雷管263、導火線426など。警察では新たに情報室をもうけ、また特別高等部(特高)とも連絡をとりながら、これらの戸口調査を進めた。道外からも3000人の応援を求めて、警備の万全を期したのである。
陸軍特別大演習は、昭和11年10月3日から5日にかけて行われた。
札幌入りした天皇は、行在所にあてられた北海道帝国大学農学部に入り、ここが大演習の開始と同時に天皇に直属する最高統帥部=大本営に切り替えられた。 昭和天皇は軍服に着替え、大隊長として演習の指揮をとる三笠宮、秩父宮らとともに、札幌駅からお召し列車に乗りこみ、室蘭本線三川駅を目指す。
【3日】北海道の特別大演習は、当時の世相を物語るかのように、荒々しい雰囲気の中で行われた。 三川で列車を下りた陛下は、愛馬「白雪号」にまたがり、天皇旗を先頭に夕張平野に第一歩をしるされたが、このときも豪雨は降り続いていた。折あしく台風の襲来にぶつかった。暴風雨は翌【4日】も続き、河川は氾濫をはじめた。電信電話も不通になる。演習は千歳川をはさんでの決戦が行われるはずだったが、あまりの悪天候に天皇の現地統監を中止、大本営での統監に変更された。
最終日の【5日】になって、ようやく天候は回復した。朝5時14分、苗穂駅から列車で恵庭に向かった天皇は、島松決戦を統監。そして7時55分、大演習は高らかに響く休戦ラッパで終わりを告げた。 10月6日は、札幌飛行場で観兵式が行われた。これは演習に参加した火力兵力を閲兵し、さらに士気を高める目的の儀式である。天皇を目の前にして陸軍の兵士たちは、「神の子」としての自覚をもつのだった。
札幌飛行場は、北24条西4丁目付近を入り口とする原野にあった。
午前8時、歩兵、工兵、騎兵、輜重兵、野砲、野戦重砲兵、機械化部隊が整列を終えた。見物の群衆も数10万に達している。天皇は8時57分に到着。分列行進がはじまる。これにあわせて空軍機が11機、会場上空に姿を見せ、日本軍の威力を披露。日本史の中で最後となった大演習は、こうして終わり、わが国は本格戦争にのめり込んで行く。
【9日】、札幌行幸を終えた天皇は、小樽へ向かった。
小樽では小林多喜二の母校――小樽高等商業学校(現小樽商大)、多喜二の小説「工場細胞」「オルグ」の舞台―そして「蟹工船」のためのカニ缶詰を製造する北海製缶などへ立ち寄り、13時18分お召し艦「比叡」に乗船、帰京した。
以後、昭和天皇を先頭とする帝国日本が世界戦争に邁進したことはいうまでもない。
そして、昭和20年8月15日、太平洋戦争は日本の無条件降伏によって終わりを告げ.る。
出典を知りたいのですが。
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