多喜二の絶筆となった「地区の人々」の初出は『改造』1933(昭和8)年3月号、初収は同年5月発行の改造社版『地区の人々』である。
しかし、執筆開始は、1932年11月上旬である。
『改造』編集者・佐藤績にあてた1932年11月9日付の手紙で「近々―と言っても、11月中か、12月中に、五六十枚の短編をお送りします。」とあるからだ。
この書簡によると書きあげる予定は「11月中か、12月中」だった。
「地区の人々」の「火を継ぐ」決意は、1931年10月末から12月にかけての党壊滅という実際の事件を踏まえての、「火を継ぐ」決意であることは自明であろう。
実際に書きあげられたのは、1933年1月上旬だった。そして「50枚」と予告された原稿枚数は「100枚」と2倍となった。
この「地区の人々」の『改造』での発表予告が特高の激怒を誘ったと手塚英孝はいうが、それ以前から特高は多喜二を血眼になって追いかけていた。
この間に、多喜二はふじ子を検挙され、その右腕を失っている。
さらにこの時期、多喜二は宮本顕治の命を受けて杉本良吉、今村恒夫をロシアへと送り革命の「火」を残すことに努力していた(計画は途中で中止となった)。
また、極東反戦会議の実現のために奔走もしていた。
特高の血眼の追及を受けての、命がけの闘争のなかで執筆されたものだった。
「地区の人々」の原稿は、どういう経過か明らかにされていないが川並秀雄もとに蔵され、没後35年後の1968年なってようやく保存されていた「地区の人々」の原稿が確認され、校合されたのだった。それゆえテキストとしては1993年新装版全集になって、原稿によって初めて校訂され定本となったのである。
そのあらましの内容は以下の通りである。
東京の中央組織で左翼活動をしている〈私〉は、北海道Y市の「地区」で育った。「地区」は、Y市の特殊な地区であり、他の街と〈鶴田川〉で区切られていた。
地区は多くの工場が建ち、轟音が響く労働者街であった。また、市の体面と風俗にかかわるという理由で、私娼窟や「曖昧屋」は「地区」に一纏めにされていた。
「地区」の人々は、市の人々に対して卑屈になっていたが、港湾労働者のゼネラル・ストライキ以降、それが変化してきた。このゼネ・ストで、市の人々は「地区」の人々が自分たちの命を奪えるほどの力を持っていることを知ったのである。
東京に「南葛魂」があるようにYにも「地区魂」という言葉が生まれた。弾圧で壊滅を受けても、きっと誰かが仕事を引き継いでいくのだった。しかし、厳しい弾圧のため、さすがの「地区」も火が消えたようになっていた。さらに満州侵略戦争の火蓋が切られために、工場の労働条件は悪くなる一方で、「時節が時節だから」ということでストライキは見送られ、「地区」の人々の暮らしはより苦しくなり、街には千人針を頼む出征兵士の妻が立つようになった。
〈私〉がむかし住んでいた家の裏手(「裏」と呼ばれる一角)に間借りしている〈美都〉という私娼も、ある時千人針に協力した。すると新聞は、それをも国家スローガンに利用し「国家総動員の美」「私娼の純情」、「国家非常時の前には、資本家も労働者も今迄のいがみ合いを忘れ…」と書き立てるのだった。
かつての「地区」の闘士である〈兼さん〉は、酔っては太い腕をまくり、ゼネラル・ストライキにおける投石事件での活躍を自慢していたが、次第に皆に相手にされなくなっていた。しかし、〈兼さん〉は〈佐々木芳之助〉というN鉄工所に勤める一九歳の職工とともにビラ貼りなどをし、「地区魂」をもう一度見せてやる、と意気込み始めていた。
その後、〈兼さん〉とその妻の夫婦喧嘩を見た〈芳之助〉は、喧嘩の相手を間違えるなという日頃の〈兼さん〉の言葉と、行動が一致しないことを指摘する。
その後、〈兼さん〉と芳之助は直接行き来せず、〈兼さん〉の仲間である〈平賀〉が来るようになった。
〈平賀〉は新潟の中学校を出たあと、左翼の地盤であるY市に魅力を感じて、Yの高等学校に来た学生だった。しかし、有名な「地区」は火が消えたようで、中央の組織とも断絶されており、頼った〈兼さん〉も使い物にならなくなっていた。その直後に〈芳之助〉やバスの女車掌である〈久保田〉を見つけた〈平賀〉は、「地区」の火を継ぎ、全国的組織に結びつける役割を使命と感じていた。
〈美都〉が千人針の記事を書かれてから小一年後、N鉄工所には、かつての出征兵士である〈浦田〉が無事帰還してきた。しかし、彼に復職は許されなかった。そこで、〈平賀〉・〈芳之助〉・〈久保田〉の「指導グループ」は、浦田の問題だけではなく、「国家非常時」というスローガンのもとに、本工が臨時工にとって代わられたり、賃下げされるなどの、戦争と労働者の利害関係のからくりについて暴露し、中央の運動組織も眼を見張るようなストライキを起こすことを決定する。
しかし、N鉄工所と関係の深い「地区」の「裏の集まり」では、皆は「裏」の差配をしている石山家の〈武二〉の話に引き寄せられていた。〈武二〉は、戦争から帰ってきた職工をつかわない資本家への不満では、〈芳之助〉らと一致していたが、戦争を第一義とし、帝国軍人のためにストライキを起こすと考えているところでは完全に意見を違えていた。〈
芳之助〉は〈武二〉と議論するが、頭に血が上りついに暴力を振るってしまう。いつもレーニンの言葉を引用する〈平賀〉は、〈芳之助〉の行為を「個人的なテロル」「敗北主義」と斬るが、この喧嘩によって、思いがけないことにこれまで火の消えたような「地区」が立ち上がったのだった。〈兼さん〉も動き始めた。
そしてN鉄工所のストライキが勃発した。しかし、このストライキは、〈武二〉が軍部と結んだ「軍人争議」で、単に出征職工の復職を要求するだけで、労働者の直面する問題については触れてもいなかった。だが〈芳之助〉は闘争委員会でも〈武二〉らとの議論に屈服し、とうとう〈芳之助〉ら「指導グループ」は敗北してしまう。
しかし、〈兼さん〉は見違えるように元気になり、争議のイロハから〈芳之助〉に教え、この敗北の結果についても、たとえ労働者が反動的な指導者をついていったとしても、その道行きで革命的経験をつかむのだ、と励ました。
〈平賀〉はちょうどこの頃に上京し、〈私〉と会い、「地区」のこれまでの運動について伝えた。「地区」の火を消さずに、中央の組織で働く〈私〉に継いだ〈平賀〉の言葉を聞きながら、〈私〉は「地区」を想い、二人は固く手を握るのだった。
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この物語を1932年末年の党壊滅の時期に置いて読むと、「軍人争議」を描いた多喜二の視点には、大きな意味が隠されていることが浮かびあがってくるだろう。
今、その「火」とはなんだったのか、またその「火」を継ぐために多喜二自身がどのような身をれずる闘争を続けていたのかが偲ばれなくてはならないと思う。
しかし、執筆開始は、1932年11月上旬である。
『改造』編集者・佐藤績にあてた1932年11月9日付の手紙で「近々―と言っても、11月中か、12月中に、五六十枚の短編をお送りします。」とあるからだ。
この書簡によると書きあげる予定は「11月中か、12月中」だった。
「地区の人々」の「火を継ぐ」決意は、1931年10月末から12月にかけての党壊滅という実際の事件を踏まえての、「火を継ぐ」決意であることは自明であろう。
実際に書きあげられたのは、1933年1月上旬だった。そして「50枚」と予告された原稿枚数は「100枚」と2倍となった。
この「地区の人々」の『改造』での発表予告が特高の激怒を誘ったと手塚英孝はいうが、それ以前から特高は多喜二を血眼になって追いかけていた。
この間に、多喜二はふじ子を検挙され、その右腕を失っている。
さらにこの時期、多喜二は宮本顕治の命を受けて杉本良吉、今村恒夫をロシアへと送り革命の「火」を残すことに努力していた(計画は途中で中止となった)。
また、極東反戦会議の実現のために奔走もしていた。
特高の血眼の追及を受けての、命がけの闘争のなかで執筆されたものだった。
「地区の人々」の原稿は、どういう経過か明らかにされていないが川並秀雄もとに蔵され、没後35年後の1968年なってようやく保存されていた「地区の人々」の原稿が確認され、校合されたのだった。それゆえテキストとしては1993年新装版全集になって、原稿によって初めて校訂され定本となったのである。
そのあらましの内容は以下の通りである。
東京の中央組織で左翼活動をしている〈私〉は、北海道Y市の「地区」で育った。「地区」は、Y市の特殊な地区であり、他の街と〈鶴田川〉で区切られていた。
地区は多くの工場が建ち、轟音が響く労働者街であった。また、市の体面と風俗にかかわるという理由で、私娼窟や「曖昧屋」は「地区」に一纏めにされていた。
「地区」の人々は、市の人々に対して卑屈になっていたが、港湾労働者のゼネラル・ストライキ以降、それが変化してきた。このゼネ・ストで、市の人々は「地区」の人々が自分たちの命を奪えるほどの力を持っていることを知ったのである。
東京に「南葛魂」があるようにYにも「地区魂」という言葉が生まれた。弾圧で壊滅を受けても、きっと誰かが仕事を引き継いでいくのだった。しかし、厳しい弾圧のため、さすがの「地区」も火が消えたようになっていた。さらに満州侵略戦争の火蓋が切られために、工場の労働条件は悪くなる一方で、「時節が時節だから」ということでストライキは見送られ、「地区」の人々の暮らしはより苦しくなり、街には千人針を頼む出征兵士の妻が立つようになった。
〈私〉がむかし住んでいた家の裏手(「裏」と呼ばれる一角)に間借りしている〈美都〉という私娼も、ある時千人針に協力した。すると新聞は、それをも国家スローガンに利用し「国家総動員の美」「私娼の純情」、「国家非常時の前には、資本家も労働者も今迄のいがみ合いを忘れ…」と書き立てるのだった。
かつての「地区」の闘士である〈兼さん〉は、酔っては太い腕をまくり、ゼネラル・ストライキにおける投石事件での活躍を自慢していたが、次第に皆に相手にされなくなっていた。しかし、〈兼さん〉は〈佐々木芳之助〉というN鉄工所に勤める一九歳の職工とともにビラ貼りなどをし、「地区魂」をもう一度見せてやる、と意気込み始めていた。
その後、〈兼さん〉とその妻の夫婦喧嘩を見た〈芳之助〉は、喧嘩の相手を間違えるなという日頃の〈兼さん〉の言葉と、行動が一致しないことを指摘する。
その後、〈兼さん〉と芳之助は直接行き来せず、〈兼さん〉の仲間である〈平賀〉が来るようになった。
〈平賀〉は新潟の中学校を出たあと、左翼の地盤であるY市に魅力を感じて、Yの高等学校に来た学生だった。しかし、有名な「地区」は火が消えたようで、中央の組織とも断絶されており、頼った〈兼さん〉も使い物にならなくなっていた。その直後に〈芳之助〉やバスの女車掌である〈久保田〉を見つけた〈平賀〉は、「地区」の火を継ぎ、全国的組織に結びつける役割を使命と感じていた。
〈美都〉が千人針の記事を書かれてから小一年後、N鉄工所には、かつての出征兵士である〈浦田〉が無事帰還してきた。しかし、彼に復職は許されなかった。そこで、〈平賀〉・〈芳之助〉・〈久保田〉の「指導グループ」は、浦田の問題だけではなく、「国家非常時」というスローガンのもとに、本工が臨時工にとって代わられたり、賃下げされるなどの、戦争と労働者の利害関係のからくりについて暴露し、中央の運動組織も眼を見張るようなストライキを起こすことを決定する。
しかし、N鉄工所と関係の深い「地区」の「裏の集まり」では、皆は「裏」の差配をしている石山家の〈武二〉の話に引き寄せられていた。〈武二〉は、戦争から帰ってきた職工をつかわない資本家への不満では、〈芳之助〉らと一致していたが、戦争を第一義とし、帝国軍人のためにストライキを起こすと考えているところでは完全に意見を違えていた。〈
芳之助〉は〈武二〉と議論するが、頭に血が上りついに暴力を振るってしまう。いつもレーニンの言葉を引用する〈平賀〉は、〈芳之助〉の行為を「個人的なテロル」「敗北主義」と斬るが、この喧嘩によって、思いがけないことにこれまで火の消えたような「地区」が立ち上がったのだった。〈兼さん〉も動き始めた。
そしてN鉄工所のストライキが勃発した。しかし、このストライキは、〈武二〉が軍部と結んだ「軍人争議」で、単に出征職工の復職を要求するだけで、労働者の直面する問題については触れてもいなかった。だが〈芳之助〉は闘争委員会でも〈武二〉らとの議論に屈服し、とうとう〈芳之助〉ら「指導グループ」は敗北してしまう。
しかし、〈兼さん〉は見違えるように元気になり、争議のイロハから〈芳之助〉に教え、この敗北の結果についても、たとえ労働者が反動的な指導者をついていったとしても、その道行きで革命的経験をつかむのだ、と励ました。
〈平賀〉はちょうどこの頃に上京し、〈私〉と会い、「地区」のこれまでの運動について伝えた。「地区」の火を消さずに、中央の組織で働く〈私〉に継いだ〈平賀〉の言葉を聞きながら、〈私〉は「地区」を想い、二人は固く手を握るのだった。
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この物語を1932年末年の党壊滅の時期に置いて読むと、「軍人争議」を描いた多喜二の視点には、大きな意味が隠されていることが浮かびあがってくるだろう。
今、その「火」とはなんだったのか、またその「火」を継ぐために多喜二自身がどのような身をれずる闘争を続けていたのかが偲ばれなくてはならないと思う。
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