山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

男たちの絆と挫折と再生と

2024-05-03 22:06:33 | 読書

 浮世はゴールデンウィークのさなかだが、きょうもわが家は相変わらず草取りに追われている。そんな浮世に抗して、晴耕雨読ならぬ「静耕有読」の時間をなんとか確保したいと思う。そのわずかな時間から、伊集院静『愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない』(集英社、2014.4)を読む。著者の愛妻を病魔で亡くして以来、酒とギャンブルと絶望に明け暮れていたころを回想した自伝的な物語だ。

  

 以前、著者の『いねむり先生』を読んでえらく感動したものだった。本著書はその姉妹編ともいうべき作品で、内容が重複するような場面もあり、流行作家らしい瀬戸際の自分の限界との葛藤も伝わってくる。『いねむり先生』は、難病のさなかでも自分を失わず爛漫な弱さとギャンブルを武器に作家生活を貫いている「色川武大」(阿佐田哲也)への挽歌と連帯の作品だった。先生に対する愛おしい尊敬と暖かいまなざしは、今回の著書にも同じように溢れている。

 

 そこには、著者を慕う不器用な三人の男たちが登場する。彼らは編集者・芸能プロ・競輪記者と職種はいろいろだがそれぞれ個性的だが、生きる傷を背負いながら生きている。そんな市井の男たちとの交遊のなかににじみ出てくる、彼らと著者との傷の共有物語でもある。結果的には男たちの追い詰められた死が残された。したがって、本書は彼らとその周りへの挽歌・献杯でもある。「愚か者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」とつぶやきながら、渾身の筆を握る著者の哀切が流れてくる。

 

 この三人を念頭に著者は言う。「まっとうに生きようとすればするほど、社会の枠から外される人々がいる。なぜかわからないが、私は幼い頃からそういう人たちにおそれを抱きながらも目を離すことができなかった。その人たちに執着する自分に気付いた時、私は彼等が好きなのだとわかった。いや好きという表現では足らない。いとおしい、とずっとこころの底で思っているのだ。

 社会から疎外された時に彼等が一瞬見せる、社会が世間が何なのだと全世界を一人で受けて立つような強靭さと、その後にやってくる沈黙に似た哀切に、私はまっとうな人間の姿を見てしまう。」

  

 伊集院静の魅力は、そういう傷を持つ相手の心の襞を掬い取るような感性にあるとかねがね思っていた。全盲の『機関車先生』もそういう視点やまなざしが馥郁としていた。しかも、最後の無頼派作家としてもギャンブルに数十億を使ったともいうし、喧嘩もめっぽう強かったし野球もかなりうまかった。だから、女性のファンも少なくない。いわば、江戸の助六のような伊達男たっぷりの魅力が漂う。

 著者の、「生きるとは、自分のためだけに生きないことだ」「抵抗せよ。すぐに役に立つ人になるな。熱いひとになれー。」「大人にとって生きるとは何か、誰かのために何ができるか、考えること」との珠玉の言葉を残しているところも、流行作家として流されない生きる肝・哲学が基盤にある。

 

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