
何度聞いても飽きない落語がある。何度聞いても同じところでまた笑ってしまう。その発想の切り口に唸ってしまう。それが柳家小三治の落語「粗忽の釘」だった。古典落語の素晴らしさは登場人物が金持ちではない貧乏な庶民やヨタローのような弱者だということだ。それを支えているのが大家さんとか隠居さんらで、長屋に住む人々らの弱点をカバーしている人間模様が心地よい。
小三治の師匠の「小さん」の「粗忽の釘」を聞いたが、笑いを取ろうとする作為があんまりない。たんたんとストーリーテーリングを続ける好々爺のようだ。「小さん」は落語界の人間国宝第1号として1995年に認定され、第2号は上方落語中興の祖・「三代目桂米朝」が翌年の1996年に認定。第3号は「小さん」の弟子の「十代目小三治」が2014年に認定となった。師弟がダブル認定とはすごい。第4号は2023年認定されたオーソドックスな「五街道雲助」だが名前のすごさの割には知られていない。
「小三治」は、落語の魅力について、噺は単純だが聞いても演じても面白いということ、登場人物がどこにもいるような身近な人がいて、それらの断片を集めて缶詰にしていることだと看破している。確かに、小三治の落語は高尚なテーマや心理を説いているわけではない。しかし、小三治に密着したNHKのドキュメンタリーでは、彼の表情や所作はまるで哲学者のように真摯だった。そこから、当たり前のなかにある人間のおかしさ・どうしようもなさから笑いを産み出す。当世の漫才ブームのように、笑いを取るために汲々としている姿とは次元が違う。
(画像はsuumoのwebから)
長屋には家具が少ないから壁の梁に釘を打ち付けてふだん使うものを吊るす。「粗忽の釘」は、引越しをする八ちゃんのそそっかしさ(粗忽)を描いたコメデイだ。内容は師匠の「小さん」と同じ流れを踏襲しているが、「小三治」はありふれた隙間をていねいに直撃してこれでもかと拡大していくキレが大いに違う。
(イラストはJTwebサイトから)
今、チケットがなかなか取れないという当代人気の「春風亭一之輔」の「粗忽の釘」を観たが、小三治に迫る実力のほどが見て取れる。八ちゃんが引越し先の隣で「落ち着きに来た」といって、おのろけや口笛を吹いたりする所作は現代的で、「古今亭志ん朝」並みの声量・テンポ・振りの抑揚は江戸落語らしくウケもいい。将来の人間国宝の候補になれる素質を感じる。
(画像はsuumoのwebから)
「粗忽の釘」は関西では「宿替え」という表題で演じられている。それでユーチューブで「桂枝雀」の芸も観たが機関銃のようなテンポの語りは上方特有で、飽きさせない話術がある。枝雀はそれに体ごとくゆらせるところに破調の魅力がある。
それにしても、「小三治」の芸には今風のパロディや高いテンポのパワーをやらなくても、日常の暮らしの中にあるディティールから産み出す話術は一品だ。それが自然体から出てくるように見えるが、それは本人の呻吟した苦闘の中から誕生した「言の葉」に違いない。同時に聞いた「猫の災難」も珠玉の落語だった。酒に酔っていく様は、本当に酔っ払っているのではないかと思うほどの描写だ。残念ながら、2021年に鬼籍に入ってしまった。
「落語は笑わせるものではない。本来の芸とは無理に笑わせるものではない」と語る「小三治」は、噺を聞いてくすっと笑うのが落語の真骨頂だという。達観したこの昭和の名人は、今のお笑い芸人の闊歩をどう思っているのだろうか。