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気になっていた三好十郎の脚本「天狗外伝<斬られの仙太>」(而立書房、1988.2)を読んだ。ト書きが小さくて長いうえに、オラには難解な言葉が出てきて閉口もしたが、なんとか読み終わる。これが上演されたのが1934年5月初演だというのに驚愕する。当時は満州国建国、国際連盟脱退、血盟団事件、5・15事件で犬養総理射殺、獄中の小林多喜二虐殺等、軍国化と思想統制が本格化した時代でもある。
当然、当局に批判的な演劇や映画は公開できない呪縛にあり、その劇団員も獄中に拘置されていく。そんな背景を背負いながら、32歳だった三好十郎は本作品を上梓する。
年貢減免を申し立てした兄への過酷な仕打ちに対して、減刑を懇願するが受け入れられず、結果的に百姓から博徒になる。そのうちにその窮状を察した水戸天狗党の指導者のはからいで一員となるが、農民の立場を理解できない武士・指導者の観念的な限界と内ゲバで自分の命さえ危うくなる。結果的には頼みの朝廷側に立ってしまった幕府により天狗党は掃討される。
エピローグで、ズタズタに斬られたはずの仙太が明治に生き延びていた。そこへ、自由民権運動の壮士がやってきて、それを追う刑事・巡査もやってくる。
「何のことでも、上に立ってワアワア言ってやる人間は当てにゃならねえものよ。…ドタン場になれば、食うや食わずでやっている下々の人間のことぁ忘れてしまうがオチだ。…今でもそうだ。…百姓町人、下々の貧乏人が自分で考えてしだすことでなけりゃ、貧乏人の役には立つもんでねえて。」とつぶやいたのは、農作業に精を出す百姓の仙太だった。
まるで現代を描いているような作品だ。そんな彼を、獄中から出てきた演出家・村山知義は十郎を「政治指導者を悪く描きすぎている」というような批判を展開する。それに対して、それは「階級を見て人間を忘れた従来の公式的な見解だ」という反批判も出てくる。
たとえば劇作家・小説家の秋田雨雀や評論家の平野謙らは、十郎が描いた赤裸々な人間の造形は画期的だ。観念的・機械的な人間像ではなく人間の生活に根差した具象的な描写を実現させた功績は大きい、と評価する。
戦後には、民芸の宇野重吉が1968年8月に演出、1969年11月に山本薩夫監督の映画「天狗党」が公開、2021年4月には新国立劇場において上村聡史演出の4時間半近くの力作が上演される。それぞれの作品は、時代を予言したり反映したりの大作でもあった。
戦時下にありながら、大衆演劇的な手法で、殺陣あり、濡れ場あり、歌あり、踊りありの構成の間口の広さは勿論のこと、人間の在り方、時代に対峙する姿勢、土に生きる意味、市井に生きる視点などを考えさせる本書だった。だから、これを舞台で上演するのには覚悟がいる。
仙太は、「どっちにせよ、ふところ手をして食って行ける人間のすることはそんなもんよ。…人間、人に依れば、ホントのことをウヌが目で見ようとすれば、殺されることだってあるものよ」と腹をくくって生きてきた。
ズタズタに斬られた仙太は三好十郎そのものの姿である。貧困・飢餓・自殺未遂・孤独・妻の病気等を経験したうえに、それを克服しようとして「運動」に参加したものの、その内紛の凄まじさにもいつも葛藤している十郎の姿がある。まさに火だるまとなった十郎の怨念が本書から放射してくる。