山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

忘れられた明治の英傑・田岡嶺雲

2023-01-20 20:36:35 | 読書

 名前だけは知っていたがどんな人物かよくわからなかった田岡嶺雲(レイウン)。明治末に刮目した評論家として活躍したのにもかかわらず、その業績や一生は知られていない。しかも彼を研究したのは、元法政大教授・平和運動家の西田勝氏と教科書裁判で有名な家永三郎氏しか見当たらない。そこでやっと入手したのが、家永三郎『数奇なる思想家の生涯 / 田岡嶺雲の人と思想』(岩波新書、1955.1)だった。

   

 高知で生まれた嶺雲(1870・M3~1912・T1)は、少年時代に植木枝盛や板垣退助などの自由民権運動の雰囲気を直接的に体験する。東京に遊学した彼は、内村鑑三の授業を直接学んだり、帝大ではハイネに傾倒し、日本にハイネを最初に紹介した第一人者でもあった。

 その後、中学の寄宿舎の同室の友・山縣五十雄と一緒に文芸誌『青年文』を創刊。そこで、新進作家だった樋口一葉・泉鏡花・北村透谷らの才能を高く称揚し、文壇に新しい空気を注入する。そこで嶺雲は、近代社会の道徳的頽廃を告発し、貧窮する庶民へのまなざしを開眼すべしと訴える。それは同時に尾崎紅葉をはじめとする明治の世俗的権威・文壇への反論でもあった。

        

 そして、「万朝報」の論説記者時代では、欧米帝国主義からアジアの解放を主張したり、反藩閥・反富閥の運動を提起する。その後、北清事変の特派員となり、戦争の悲惨さや日本軍の残虐をまのあたりにし、帰国後それを発表する。また、岡山県知事らの汚職を摘発するが逆に「官吏侮辱罪」で訴えられ刑務所に収監される。

 また、文芸評論家として、夏目漱石・木下尚江を推奨したり、与謝野晶子の「君死に給うこと勿れ」を批判的に擁護したり、反資本主義・女性解放を見極めた先験的な主張をする。当時の文壇の流れに抗した孤塁で論陣を張る。

  

 しかし、こうした嶺雲の先駆的評論は、ことごとく発禁処分ともなる。したがって、資料がなかなかないというのが現在の実情だ。嶺雲は、文明の進歩によって、国家が作られ政府・軍隊も組織された。そして、貨幣・商業・私有財産・資本・機械も発明された。という経過を描いているが、その叙述がじつに唸ってしまう筆力だった。紹介したいが長くなるので結論だけ、「文明と進歩、そのおかげで地上は不平等の世となり、人は自由なき民となった」。現代文明の病根・幣はここにありと鋭く告発する。時代は明治の藩閥・軍事体制が確立まもないなか、直截に繰り返し主張したのだった。

         (画像は嶺雲、潮光庵ブログより)

 家永氏は、共同で雑誌を創刊した山縣五十雄氏に会い、嶺雲の性格を取材している。それによれば、「田岡はまったく天才肌の人物で、我儘なところもあり、俗世間とはしっくり合わぬようであった。非常に情熱的の、詩人と云うべき人物であろう。…矛盾した性格をもち、一方で子供のようなところがあるかと思うと、他方では老熟したところがあった」と。

   

 家永氏の評価は。「嶺雲は直感的思想家であった。…しかし、彼は迂遠で悠長な論証を通り越して直ちに核心をつかむ能力をもっていた。あらゆる破綻にもかかわらず、彼の直感的天才の洞察力はその著作の中に不朽の光を放っている。彼の直感を支えるものは、彼の熱烈な正義感と人道。これがある故に、彼は他の一切の不足を克服して、本質的な認識に到達する直観力を駆使しえたのである。」と。

           

 嶺雲は、明治初期に生まれ、帝大では漢学科に在籍していた。したがって、漢文の素養があり、その文章は今日では難解でもある。家永氏はそれを踏まえて読み込んでいるのだから学者の力量には頭が下がるしかない。西田勝氏は散逸している文献を「資料集」にまとめたという歴史的事業も残した。

 江戸の洋学者がいち早く世界を知ってしまったが、嶺雲は、文明開化した明治の本質が太平洋戦争につながることを直感的に見抜いていたともいえる。それはまた、現代の世相を暴露してやまない宝刀そのものではないかとも言える。現代から見れば嶺雲の限界や弱点も見えてくるが、その生涯は一貫していて、その核心は現代を抉って余りあるものがあった。

 

 

    

 

 

   

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