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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

出版社のキャッチコピーを比較する ①

2021-01-05 21:51:59 | 意見・所感

 元旦の午後、新聞を買いにわざわざ街のコンビニに出かける。コンビニには新聞の殆んどが無くなっていて4か所を探し回る。いつもは新聞の社説を読むのを毎年心掛けてきたが、どういうわけか、出版社の広告のキャッチコピーが気になった。

   まずは岩波書店。「現実を見よと言われ、夢想を止めよと笑われながら、それでも想像を止めない。その力がいまをつくりあげた。その力が未来を切り開く。 そんな想像力をはぐくむ本をつくり続けるー わたしたちの新年の決意です。」と結び、『想像力が明日をつくる』というキャッチコピーと宮崎駿の絵コンテで全面広告とした。しかし、表現が従来的で心をキャッチするほどのパワーが足りない。言いたいことはよくわかるが、老舗に安住している環境から一歩も出ていない、と言ったら言い過ぎだろうか。

   

 その点では、文芸春秋社の『活字のなかに<人間>がいる』という言葉でグッと惹きつけられる。スペイン風邪のときの菊池寛の小説の紹介で、中身は岩波書店には及ばないものの、このキャッチコピーには迫力がある。

        

        

 光文社のこうあったらいいなという写真に、『ニューノーマルな、朝の絶景』という取り合わせは遊び心のなかに思いを貫徹している。また、大修館書店の明鏡国語辞典のキャッチもオーソドックスに特色を伝えている。

  

 新潮社の『私たちは人類史上かつてなく他人と<接続>しているのに、なぜ孤独を感じるのだろう』という、コロナ禍を踏まえた不安感に入り込む。「私たちを取り巻く環境と、人間との進化の結果が合っていないことが、私たちの心に影響を及ぼしているのだ」と、引用したハンセンの『スマホ脳』を紹介している。

 そして最後に、「読書そのものは孤独な作業なのに、そこからは大きな充足感を得ることができる」と結ぶところはさすがの新潮社だ。しかも、荒木経惟(ノブヨシ)の写真がまた惹きつけられてしまう。中身が秀逸。保守論壇の覇者ともいうべき新潮・文藝春秋はさすがに鍛えられている。(つづく) 

 

    

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そこのけそこのけスミレが通る

2020-04-13 21:06:24 | 意見・所感

 わが畑の脇の道に一株だけいわゆる「スミレ」が咲いていた。いつもの位置より7~8mほど路上のコンクリートに近づいていた。なかなか群落にはならないのでわが家の環境は気に入っていないようなのだ。それなのに、近所の家の坂道にはスミレの二列縦隊が誇らしげに楽隊を形成していた。

  

 そう言えば、知の巨人と言われた故加藤周一氏は、戦後まもなく戦時中の文学青年を批判して「新しき星菫派(セイキンハ)」と呼んで論争になったことがあった。つまり、星やスミレに託して恋愛や感傷を詩歌にしたロマン主義文学者を痛烈に酷評したのだ。言い換えれば、新しき星菫派は、その戦時体制に対しては黙して現実逃避したのに、戦後は平和主義の旗手のような平然とした態度に加藤氏は容赦ない怒りをあらわにしたのだった。

  

  星菫派は与謝野夫妻の雑誌『明星』に結集する若き文学者群だが、加藤氏はその後の戦時体制から戦後にかけて無節操に転向する文学者を、「新しき星菫派」と揶揄したのだった。
 つまり、「相当洗練された感覚と論理を持ちながら、およそ重大な歴史的社会的現象に対し新聞記事を繰り返す以外一片の批判をなし得ない青年」たちと烙印を押す。

 加藤氏の投げかけた問いはそのまま現代の平和ボケした世相にも当てはまる気がしてならない。戦前・戦中・戦後の文壇の無力・無責任はいまだ変わってはいない。

          

 それはテレビによく出演する評論家たちの受けねらいや迎合の風潮に、加藤氏の鋭さはいまだに錆びてはいない。スミレを愛好するオイラの立場も星菫派に近いのかもしれない。

 そんなことを考えつつスミレを見ているわけではないが、宝塚ファンの娘からは「時代をえぐる歌劇も上演していることもあるのよ」と釘を刺された。また、加藤氏も晩年は柔軟になったらしい。

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渋谷の再開発で欠落していること

2020-01-04 16:43:17 | 意見・所感

 先日、渋谷の迷宮に入り込んでしまった昭和の高齢者ことオイラは、それを当てつけるわけではないが、次々進行している巨大再開発にひとこと言いたくなった。オイラにとって1970年代の渋谷は、邪魔な髪の毛をかき分けながら青春を謳歌した若者の街でもあった。そこには、洗練された映画館がありミュージアムがありパルコや喫茶店があった。しかしこの再開発は、少数派となった若者を照準するのではなく、林立する高層ビルのオフィスをまたたくまに完売させ、高級な商店では列をなす中間層消費者を獲得しつつある。つまり、渋谷は金のない若者の街から金を吸収する商業・ビジネス街へと脱皮しようとしているのだ。格差の亀裂がますます深まっていく。

     

 建物に入ると海中庭園にでもいるような錯覚をもたらす高い吹き抜けにあるエスカレーターはいよいよ幻想と欲望の世界へと心を奪っていく。目の前にきらめく商品が並べば欲しくなり、目の前に高級な食品が見事に配置されれば脳髄はよだれを命令する。渋谷の再開発とは欲望の拡大再開発に本質がある。これだけの資本投下が地方や若い夫婦に分配されれば慎ましい人々の暮しもより安定的に豊かになるはずだ。

            

 ここから空を観ても深呼吸する気になれない。空は狭いからだ。高層ビルに高層ビルの影を落としている。高層ならば陽当たりがいいわけでもない。この頃、ガラス張りの「スクランブルスクエア」の屋上が紹介されて、密集した東京を一望するのを「きれいだ」とマスメディアは放映する。緑を探すのが苦労するのにそれは報道しないというおべんちゃらテレビ局が多い。ここでは、土地も地下も建物も空間もそして人間もすべて「市場」化されてしまう。

                   

 洗練された店構えやディスプレーや商品には感動もする。アーティストの活躍が伝わってくる。しかし結局すべては収益というものに収斂される。ここには「人間力」というものを育み、発揮する場というものはどこにあるのだろうか。地球的規模の課題に挑戦する家具大手「イケア」のような社会的・地域的課題を解決していくスケールのある企業はどこにあるのだろうか。「化石賞」を拝命した日本としては、まさにこういう場こそ起死回生のチャンスではないか。アフガンで亡くなった中村哲さんの崇高な意思と行動を学ぶ場を共存できないものだろうか。        

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群を抜く「朝日」、お粗末「毎日」「読売」、健闘「日経」

2020-01-03 17:33:13 | 意見・所感

 新聞各社の元日号の記事はそれぞれの思い入れがある。その中で世界情勢や日本の現状について、表面的な記述が圧倒する各社だったが、「朝日」はさすが内容の深みを感じさせた。社説の出だしは「東京」と似ていたが、西洋近代が打ち立てた「人類普遍」の理念をめぐる攻防が2020年代から始まると提起する。「高く掲げられる理念は、差し迫った眼前の危機を乗り越えるためにこそある」と。

          

 そこに関連して「朝日」は、生物学者の福岡伸一さんと「最底辺託児所」の保育士兼ライターのブレイディみかこさんとの対談「多様性って何だ」が白眉だった。ブレイディさんは多様性を得るためには、「他者の立場を想像して、理解しようとする」<エンパシー>が必要と説く。福岡さんは日本で話題になった「忖度」は、「自分の利益のために行う防御的な行為」であり、それは「日本社会に独特の同調圧力の強さ」に関係するとして、多様性に向かわない「均質的な社会」を指弾する。それを生物界の事例を取り上げながら語るところが見事だ。

                 

 それに対し、「産経」は今年も総理との対談(岡田准一・村上茉愛)を特集して政権にすり寄り、一面記事では論説委員長が、国体護持を批判した元外務官僚にヒステリックなレッテル張りをしている。また、今年の「読売」は珍しく感情を抑えた論調だったが、長い社説のわりには時代の本質をとらえきれていない。さらには大新聞の「毎日」の平板な記事にはあきれてしまう。社説には「あきらめない心が必要だ」と遠吠えするだけだ。これら三紙に共通することは記事のなかに狭間に生きる人間のドラマがないこと、社会に問いかけるジャーナリズム精神が欠落していることだ。

     

 そんななかで、「日経」は、「資本主義の常識がほころびてきた」と従来の「成長の公式」が通用しなくなったことを提起している。スウェーデンの家具大手「イケア」は気候変動への対処や再生可能エネルギーに大型投資(240億円)を開始したことをとりあげ、アメリカも「株主第一主義」の旗を降ろし地域社会にも配慮した経営に移行しつつあると紹介している。また、社説でも再生エネルギーの比重を高める技術が必要だとして政治の強力なリーダーシップも訴えている。日本の政治・組織はこうした世界の動きに今のままだと化石のままで甘んじる勢いだ。また、マスコミ自身の変革こそ問われている2020年でもある。  

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不条理のかけらを少しだけ変えてみる新年に!!

2020-01-01 17:21:18 | 意見・所感

 寺社に願掛けもしなかったせいか、新年の新たな気持ちは進展していない。が、先月中旬に、わが家が裏山の日陰にあるため、背の高くなった樹木を集落のほぼフルメンバーの総力で皆伐してくれた。おかげで太陽を家から望むことができたのだった。集落の総意に感謝するとともに、本年も集落に貢献できることを育んでいきたいということでは、新たな気持ちになったことは間違いない。

 

  今年も新聞各紙(読売・毎日・産経・朝日・東京・日経)6紙を読む。昨年は東京新聞が最も鋭い記事を展開してくれたが、今年はどうだっただろうか。同紙の「社説」では、2015年国連で18歳のマララさんの講演を踏まえて開発目標(SDGs)を十年後の2030年までに達成することを次世代に約束したことを取り上げた。そしてとくにその中の「誰一人も置き去りにしない」「地球規模の協力体制」についてこの20年代をどう生きるかが大切だと呼びかけた。

  

  昨年ほどではないものの、一人の人間にスポットをあてた障碍者への無関心と皇室タブーについての記事がまさに東京新聞らしい。というのも、他紙の多くは「朝日」を除き経済中心の社説が多かったからだ。

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原木と「抱樸(ホウボク)」と山本太郎

2019-12-11 21:28:00 | 意見・所感

 娘からときどき送られてくる山本太郎情報。だいたい「れいわ新選組」なんていうネーミングが気に食わなかった。新選組は時代に逆行するテロリストではなかったか。しかし、彼の演説の真摯さや弱い者の立場を受けとめる感性には共感するものがある。とりあえず、『まるごと山本太郎』(「週刊金曜日」臨時増刊号、2019.11.28号)を取り寄せて一気に読む。

    

 最近の野党再編は元のさやに戻ってしまう以上の新鮮さがない。与党に対する批判や揚げ足取りには懸命だが、国民に希望を生み出す斬新さがない。その意味で、前の選挙で国会に送り込んだ「れいわ新選組」の身障者国会議員の衝撃はすさまじい。次の選挙には「れいわ新選組」が台風の目になることは間違いない。

      

 そうした現象を生み出した山本太郎の本気度は、今の野党には全く感じられない。一方、赤字経営で四苦八苦している良心的な出版社の「週刊金曜日」が臨時増刊を出すという事態がニュースなのだ。創刊当時はカンパをこめて定期購読していたが毎週送られてくる雑誌はとても消化できず購読もストップしていた。

 そこでまず、「増刊号」の中の白眉の記事だったのは、ホームレスの支援を続けているNPO法人「抱樸」理事長の奥田知志さんとの対談だった。

            

 ほとんどが奥田さんの言葉で圧倒、太郎は学ぶ立場だった。「樸」とは可能性を秘めた原木、「抱樸」とは、その原木を抱きいずれ来る時を待つという老子の言葉だそうだ。奥田さんは「今の社会は拙速に有用性や生産性で」人を判断するが、待つことが大事ときっぱり。いやー、深い言葉だ。太郎はすっかりそれを学ぼうとしている謙虚さが伝わってくる。

      

 これに注目したのは、たまたま数日前から原木シイタケのほだ木を選別しながら運搬しているさなかだったからだ。市販のシイタケの90%以上は工場での菌床栽培だが、原木栽培は山から樹木を伐採することから始まる。山の斜面での労働の厳しさはまさに命がけであることは真ちゃんの事故死でも証明済みだ。このほだ木こそ真ちゃんからいただいた最後の贈り物だった。このほだ木もそろそろ役割を終える年齢でシイタケの発芽率は半分以下となってしまった。

             

 随筆家の若松英輔さんは、当選した木村英子議員との対談記事では、「新しい世界は、<強者>の欲望の中にあるのではなく、<弱き者>の悲しみのなかにある」と述べていた。これが前の選挙で示した山本太郎の戦略でもあったわけだ。

 限られた時間の中での増刊編集作業はさぞや困難のきわみであったことが伝わってくる内容だった。やっと日本にもほんまもんの政治家が出てきたことを実感させてくれる増刊号でもあった。

 

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戦闘的教皇に懺悔すべし

2019-11-25 21:06:59 | 意見・所感

  広島・長崎に会いに来たフランシスコ教皇(画像はLivedoor newsから)。その戦闘的なメッセージに日本国民として恥ずかしいと思った。広島市平和記念公園の「平和の集い」に出席した教皇は「戦争のために原子力を使用することは、犯罪以外の何物でもない」と指摘し、「核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるか」と核抑止力を唱える国々を批判した。

                

 さらに、フランシスコ教皇は人々に三つの行動を呼びかけた。これからの世代に「二度と繰り返しません」と言い続けるために「記憶すること」。自分だけの利益を後回しにして、平和に向かって「ともに歩むこと」。そして、原爆と核実験、紛争の犠牲者の名の下に「戦争や兵器はもういらない」と叫び、平和を「守ること」。これらが「広島においてより一層強く、普遍的な意味を持つ」と強調した。(記事は朝日新聞digitalから引用)

  

 核兵器廃絶をはっきり明示し、その行動も提起したのも画期的。ここまではっきり世界に提起した宗教指導者はどれくらいいるだろうか。日本の政治家はもちろん仏教・神道の高位の指導者からのメッセージは聞いたことがない。日本宗教者平和協議会(日本宗平協)の動きも注視したいが政党色の臭いがときおり出てしまって本来の趣旨が活かしきれていない。そのためか、メディアも取り上げるのに慎重だ。

  
 とは言っても、日本の宗教界の長老は平和を実現するためにどれだけ汗をかいただろうか。内輪では小さな発信をしているだろうが、葬式仏教に相変わらずうつつをぬかし、現状を打破できないお粗末さをどれだけ痛恨としてとらえているだろうか。また、国家神道によって戦時体制に関与してしまった神道はまったく反省がない。天皇を盾にうやうやらしく利用してしまい、祭政一致の疑問すら持たない思考停止は、国民の大衆迎合主義(ポピュリズム)を着々と強めているではないか。

 その意味で、今回のローマ教皇の戦闘的発言と弱者に寄り添う姿勢は日本の沈滞と閉塞を穿つ契機となる。個人的にはかつてのキリスト教の宣教師が帝国の植民地支配の尖兵となった歴史的経過もあり、それをいまだ払拭できていない現状は不満ではあるが、教皇の弱者へのまなざしに本物を感じる。
             
          
 加えるに、教皇が安倍首相に世界の核廃絶の仲介を明確に要請したとき、安倍くんは胸を張って「橋渡しに努める」と断言したが、これはまるで国会答弁と変わりはない。憲政史上、在任期間が歴代第1位を更新している総理ではあるが、その期間中平和への強い行動は全く見られなかった。むしろ、防衛予算増額つまり軍備増強と、アメリカへの忖度・依存をますます強化するばかりではなかったか。安部くんの言う「積極的平和主義」とは、アメリカの世界戦略に積極的に加担するというふうにしか受け取れない。平和のための予算を積極的に増額もしていない。教皇のメッセージを謙虚に内面化するどころか胸を張ってしまうところが致命的だ。
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目くるめく「原発マネー」は踊る

2019-10-03 19:56:12 | 意見・所感

 連日、関西電力と福井・高浜原発にまつわる原発マネーの循環が取りざたされている。「やっぱりそうだったかー」という想定内の感想だ。3200億円の金品が動いたというが、これだけでは済まされない規模の原発マネーが動いてきたのは言うまでもない。全国で動いた巨額の原発マネーの汚染は地域・人間を分裂させていく。

            

 原発建設といい、再稼働といい、暗躍する電力会社や関連業者や行政の秘密工作・隠蔽工作は以前からすさまじかった。原発マネーの裏金は一部の利益者を豊潤にし、公的施設の箱もの建設で住民の目先の利益をかっさらう。さらには福島のメルトダウン事故のおかげで工事請負費をたんまりいただく構造も見えてくる。庶民の電気料金はどんどん値上がりしていくのに電力会社は赤字にならない料金設定だ。だから原発事故が起きても黒字で乗り切れる。

 企業や行政に社会的倫理というものが喪失してしまった。明治期には「報徳思想」が顕在し今でいうNPO的な先導的な活動が機能していた。首長は自分の財産を地域のため提供していた。それが最近の大企業は軒並みそういう企業倫理を事実上捨て去り利益第一主義に狂奔してきた。だから、このごろの殺人事件といい、子どもへの虐待といい、あおり運転といい、政治家の暴言といい、お粗末な事件に事欠かない。

 放射能で故郷や国が汚染されても、自分の利益さえ入手できればいいのだ。原発マネーは地域と住民の心を貶め、人間を分裂・解体させていく。

 国連で演説したスウエーデンの16歳のプレタさんは涙で訴える。生態系や大量絶滅が始まっているのに、「あなた方が話すことは、お金のことや永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。」

 もう、日本の恥じらいの文化は死んでしまったのだろうか。

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報道機関は独立していなくちゃいけない!

2019-07-20 21:08:58 | 意見・所感

 久しぶりに久米宏の怪気炎を聞いた。昨日、NHKの「あさイチ」に出演、「国家に人事と予算の首根っこ握られているというのは絶対間違っている」と断言した。NHKはときどき優れたスクープを報道してきたが、それは一部の良心的職員の手腕で終わっている。しかもそれは放映時間が深夜だったり、教育番組だったりして、全体としてはは「政治の中立」を隠れ蓑に政府の忖度に汲々としているのが現状だ。

 

 久米宏は「NHKは民間放送になるべき」と主張して、周りの番組スタッフをハラハラさせたが、政府を監視するだけのテレビ局を経営する主体は形成されるかどうかは難しいのではないかと思えてならない。つまり、批判するのはやさしいがそれを実現させるパワーと政策を貫くのはなまやさしいことではない。

      

 若者が政治に関心がないのは政府の「愚民化政策」が成功しているからだ。オイラも役場の末端を汚していたが、教育委員会は中立ではなく、いつも「上から」の忖度に終始していた。教育行政の現場はタブーだらけだった。タブーを破ると人事で左遷される。それはオイラの辛い体験でもあったが、それは日本のすべての分野で今なお着実に行使されている。

 

 考えることを奪われた社会、本当のことを伝えられない社会はどこかでひずみを生む。最近の事件のいじめ自殺、放火、殺人、いたずら、SNSの暴言、沖縄基地問題、政治家の退化等々、その根幹に見えないタブーが居座ってしまった。久米宏は、ベストテンを華々しく放映しているとき、その裏で拉致事件が次々起きていたことをメモを見ながら慙愧に堪えない表情を見せた。それは今も、バラエティーやお笑いに占拠された番組の裏で日本のすみずみに亀裂と事件と退化が進行している。久米宏のきままに思える自由度をいかにとらえられるか、「平和ボケ」・「ポピュリズム」の実態が問われてやまない。

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食べることは生きること/さすらいのシェフ

2019-06-19 21:10:33 | 意見・所感

 バラエティ番組が嫌いではないがお笑い芸人の顕示欲が目に余る。したがって、そこにはチャンネルはいかないことが多い。そのぶん、深夜のドキュメンタリー番組を見るようにしている。先日たまたま「さすらいのシェフ」という韓国の料理人のドキュメンタリー(再現物語かも)を見る。ヨーロッパの宮中晩さん会でも著名なシェフのイムシホは野草料理の達人でもある。

  

 放浪の旅先でやさしい老婆に出会い、地域に生えている野草料理をお礼にふるまう。その後、初対面にもかかわらずシェフを息子のように受け入れた老婆も彼岸の人となった。シェフは仏教でいう108の料理を一人で作ることで老婆を弔う。それも地元の野草や食材を基本とした。それは同時にイムシホが、逢うことのなかった生母と自分を生かしてくれた養母への鎮魂歌でもあった。

         

 日本の料理界の一流は金持ちのためだと断言してもいい。庶民にとっては料亭ののれんをくぐることのないまま一生を終わる。その意味で、イムシホさんの料理は地域を活かすこと、あたりまえの生活者を活かすこと、食材を活かすこと、それを自分に課しているところが日本の一流料理人との違いだ。韓国の宮廷料理人のドラマは和宮様のお気に入りだったが、それとも対照的な生きかたでもある。格差社会がますます進行する日本社会の中で、何に向かって生きるのか、誰のために生きていくのか、の選択の時代が始まっている。

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