高屋敷の十字路
十字路で立ち話し(あるいはワッツニュー)
から
日本列島の南半分はお花見で賑わった土日だが
お隣中国各地で満開の反日デモのプラカードで
何を訴えていたのかテレビ画面が読めないもどかしさ。
どうせやるなら日本語のプラカードが映し出されるよう
周到に準備したりマスコミによる報道効果を計算に入れたり
できてないようなチグハグな感じを引きずってどうなるのか。
枕もとのテレビが音声だけになったりリスニングルームの
地上波テレビチューナーが駄目になっていまだにそのまんま
インターネットのモデムが壊れたときなどソッコーで対応したのに。
インターネットが無くなっても別に暮らしに困らないのに
テレビが映らないとその分だけ部屋の壁に穴が空いたみたいで
日々の余暇の手触りがどこか違ってしまうのは何故なんだろう。
あってもなくてもどうでもいい加減などっちつかずなところ
花見の雑踏の中に紛れ込んだひとりぼっちの安心感みたいな
心地よさとはまた違った雰囲気が部屋で映っているテレビにあるから。
芝生に舞う風の子みたいな孫まで加わった埃っぽい河川敷公園での
今年の花見はお弁当や飲み物を手から放せない風洞実験みたいで
山麓の川べりあたり二人でやり直そうにも肌寒い天気じゃ家で模様替え。