高屋敷の十字路
【十字路からの発言】
から
寒かったり暖かかったり、雪が降っても、積もるようで積もらず、暖冬とも寒冬ともいえない今年の冬をなんと呼べばいいのか。
寒い体育館でスポ少バドミントンの子どもらの相手をして三十数年、暖かい短大の教室で前・後期数コマの授業も十年を過ぎ、年々向き合う相手との年齢差が広がるように遠ざかっていく手触り。バドミントンをやり始めた子どもや司書科目を選択履修する学生たちのやる気そのものが動機の画一化と持続の拡散の間で揺らいでいる。
かって山中スポ少バドの三羽烏と言われた男子団員が退団後も優れた現役選手として活躍を続けながら新規コーチとして力量を発揮しているが、彼らが在籍していた昭和59年度の団員名簿はは53名(女42・男11)を数えた。以来右肩下がりで増減を示してきた団員層から彼らを凌駕するプレーヤーはまだ出ていない。試合に負けた直後の練習で特訓を申し出たり、ダブルスゲーム練習の最中にラリー展開とプレイヤーのフォーメーションを問い質される、なんてこともめったになくなった。
団員が多く練習時間が短かった当時は父母送迎などなく、歩いて早めにやってきて体育館で競うようにネットを張って合成シャトルを打ち合う姿を前に、2時間しかない練習の開始を何度か繰り下げさせられたりしたことも。素振りと壁打ちとコート外運動に終始させられ、コート内練習が不十分なまま大会に臨まざるを得なかった当時の団員たちの奮闘ぶりが懐かしい。
山中校下スポ少バド立ち上げから渉外事務全般を一手に引き受けていた初代監督の自宅にコーチが集まり、各年度毎に練習方法など話し合ったりしたこともあったが、コートも時間も足りない練習環境で工夫するしかなかった。それでも試合でがんばっているわが子を見守る親の姿はほとんどなく、連絡や鍵当番そのほか役員を分担する父母会なんてのができたのは二代目の監督になってからだ。
女子団員にリレー県代表チームとして国立競技場で走ることになる生徒がいた平成14年度のバド団員は31(うち男5)名いた。たまたま6年生団員が1人だったりして、5年生女子団員が率先して練習メニューを進行させ、手分けして後輩の基礎打ち相手をしたり、コーチが不足がちだった土曜午後の練習条件が幸いしたようなことも。1人で多数の学生に相対する教室でも回を重ねるうちに、状況を察して授業の進捗を助けになるような学生の行為が見られたり。
数年前に体育館が新しくなり、三代目の監督のもと若く優れたコーチ陣が加わって指導法も見直され、より高いところを目指せるスポ少バド活動の場が整いつつある反面、年々入団希望者が少なくなる裾野の狭まりが。北海道から沖縄まで50年を超えるスポーツ少年団の平成23年度の登録団体は3万6千(83万人)で、約70種目ある競技団体数の上位10番目にバドミントン(733団数・15,106団員)が位置している。我が校下の小・中校の学級数などからスポ少予備軍の子どもらは減っていないようだが、バドミントンを選ぶ子どもが稀なのだろう。わが子の練習レベルアップのためにも、父母会メンバーによる団員掘り起こしに期待したいところだ。
2003年から、山中スポ少バドメンバー構成と似通った男女比率で、20~30名をはみだすように推移している短大の担当司書科目の教室をふりかえれば、履修生が多かった年度は脱落学生が出たりする反面、初回のレポートから見違える内容を最終回に読ませてくれる学生も現れ、どっちつかずの中間学生層の学習成果を引き揚げてくれたりしたことも。そんな背景には、図書館で働きたいと意気込んでいた学生があまりにも狭き門に直面し、就活で鞍替えしたみたいに教室に来なくなる学生もいたり、司書職に就ける受け皿の貧しい現実が。
短期的な成果を上げるには、少数精鋭グループもありだろうが、定期的にメンバーが入れ替わってゆくスポーツ少年団や学習活動の場が永続するには、生徒や学生として体育館や教室にやってくる未来の主人公を育む裾野の広がりが欠かせない。かって5校下で持ち回り開催していた第7ブロックの大会も、今じゃ残った2校下のスポ少バド対抗戦に様変わり。
富山女短大開学5年目、昭和43年に設置された司書養成課程を選択した科目履修生が50名を超えていたこともあったようだが、これまでに司書資格を取得した二千余名のうち何名が図書館で職を得られたか。卒後の実績も問われようが、富短在学時に附属図書館への不満を抱えながら司書科目を学んだ学生の声が、これまでの附属図書館運営に届いていないようだ。専任教官に恵まれず時間講師に頼らざるを得ない司書課程の現状ではあるが、平成25年秋の開学50周年記念事業に図書館の充実や改善策を盛り込むような働きかけがあったのかどうか。
5年あまり近所の中学のバド部活につきあっていた体育館で、ネットで仕切った床半面を練習前に雑巾がけしながら肩甲骨や股関節を働かせて体幹を養う女子部員が見られたが、なぜか男子部員の雑巾がけ姿は皆無だった。昭和三十年代はじめに入部した中学の剣道の部活でも体育館の雑巾がけから始まったが、寒稽古では校門の除雪が、暑中稽古では夏草刈りが加わったりしていた。
野山や川原遊びからはじまった幼少年期の畑仕事に草むしり、田植えや稲刈り、夏の水撒き、冬の除雪や屋根雪下ろし、肥桶や雑木担ぎ、薪割りそのほか手伝い作業が虚弱児の部活以前の体力作りや道具を使う身体捌きに役立ったかもしれない。
生活風土が違ってしまった現代っ子が体軸を通した動き、股関節や肩甲骨に連なる道具の使い方に目覚める機会はどうなっているのだろう。体育館で取っ組み合いの喧嘩をする団員も、教室で口角泡を飛ばして講論する学生など滅多にいない。附属図書館に勤めていた大学のスポーツ各部対抗バドミントン大会を制したのがバスケ部員だったことがあったが、なるほど彼らは肩甲骨や股関節を働かせる体幹の使い方に秀でていた。
小中学生が技を身につけるのに必要な身体捌き、とくに肩甲骨や股関節の柔らかさを活かす練習も工夫しないと。脚を折り曲げ踵を床に着けて片足開脚ができにくく、膝頭をつま先より前に出さないよう上半身を前傾しないスクワット(屏風座りともいう)となるとほとんどできない。
団員の練習や試合会場など体育館の出入りや学生の教室や図書館の入退室でも、言葉や会釈で挨拶する姿勢も遠のいてきている。場の切り替わりを無意識に読み込めない身体の置き所なさとでもいおうか。50名以上は坐れる教室での20名足らずの履修生の席取りだが、出入り口から遠い窓際と廊下に近い壁側に別れ、その中間では奥の壁側と手前の真ん中あたり、まるで性格分類したように四つの離れ島に座る。
わからない時は先送りしないで、その場で手を挙げ質問をみんなで共有したいのだが、なかなかそうはいかない。授業開始前や、演習課題を解いている合間や、授業終了時に教卓までやってきて質問しがち。提出課題やレポートの余白に予期しないコメントが書き込んだりする学生は窓際や壁側から。意外と奥の方から授業を盛り上げてくれたり。居てくれるだけで教室を明るくする学生がまん中のあたりに。
「答えはどこに書いてありますか」でなかったら「本を読んだり勉強していないからわかりません」というのがこれまで富短の教室で学生とかわしたやりとりの定番になってきている。同調性圧力が働きがちな小・中・高の教室で習い覚えた身の振る舞いから脱皮するには短大の2年間じゃ足りなさそう。
なぜやるかという動機づけがはたらかない練[学]習のための練[学]習にならないようにするにはどうすればよいか。やりすぎないよう練[学]習時意欲が途切れる手前でやめ、練[学]習時間外に持越した意欲であれこれ試すうち、次回の練[学]習が待ち遠しくなるような繰り返し。
練習や授業で〈体育館〉や〈教室〉へ「お願いします」と入り、あるがままの身体を溶け込ませた時空をそれぞれが体験化することによって、それまで知らなかった関係に目覚めた身体が知覚する新たな身体性によって得られた関係性に「ありがとうございました」と一礼して退室するまでの団員や学生の姿勢の強弱が各人の学ぶ力を掘り起こす。とても「試合結果」や「学力テスト」などで測れるようなものではないが、体育館や教室以外でも自らにとって〈師〉となる出会いが〈学力〉を起動させ、教えを乞う心身の座をはたらかせ、さまざまに思考をめぐらす場へといざなう。(2014.03.31)
【十字路からの発言】
から
寒かったり暖かかったり、雪が降っても、積もるようで積もらず、暖冬とも寒冬ともいえない今年の冬をなんと呼べばいいのか。
寒い体育館でスポ少バドミントンの子どもらの相手をして三十数年、暖かい短大の教室で前・後期数コマの授業も十年を過ぎ、年々向き合う相手との年齢差が広がるように遠ざかっていく手触り。バドミントンをやり始めた子どもや司書科目を選択履修する学生たちのやる気そのものが動機の画一化と持続の拡散の間で揺らいでいる。
かって山中スポ少バドの三羽烏と言われた男子団員が退団後も優れた現役選手として活躍を続けながら新規コーチとして力量を発揮しているが、彼らが在籍していた昭和59年度の団員名簿はは53名(女42・男11)を数えた。以来右肩下がりで増減を示してきた団員層から彼らを凌駕するプレーヤーはまだ出ていない。試合に負けた直後の練習で特訓を申し出たり、ダブルスゲーム練習の最中にラリー展開とプレイヤーのフォーメーションを問い質される、なんてこともめったになくなった。
団員が多く練習時間が短かった当時は父母送迎などなく、歩いて早めにやってきて体育館で競うようにネットを張って合成シャトルを打ち合う姿を前に、2時間しかない練習の開始を何度か繰り下げさせられたりしたことも。素振りと壁打ちとコート外運動に終始させられ、コート内練習が不十分なまま大会に臨まざるを得なかった当時の団員たちの奮闘ぶりが懐かしい。
山中校下スポ少バド立ち上げから渉外事務全般を一手に引き受けていた初代監督の自宅にコーチが集まり、各年度毎に練習方法など話し合ったりしたこともあったが、コートも時間も足りない練習環境で工夫するしかなかった。それでも試合でがんばっているわが子を見守る親の姿はほとんどなく、連絡や鍵当番そのほか役員を分担する父母会なんてのができたのは二代目の監督になってからだ。
女子団員にリレー県代表チームとして国立競技場で走ることになる生徒がいた平成14年度のバド団員は31(うち男5)名いた。たまたま6年生団員が1人だったりして、5年生女子団員が率先して練習メニューを進行させ、手分けして後輩の基礎打ち相手をしたり、コーチが不足がちだった土曜午後の練習条件が幸いしたようなことも。1人で多数の学生に相対する教室でも回を重ねるうちに、状況を察して授業の進捗を助けになるような学生の行為が見られたり。
数年前に体育館が新しくなり、三代目の監督のもと若く優れたコーチ陣が加わって指導法も見直され、より高いところを目指せるスポ少バド活動の場が整いつつある反面、年々入団希望者が少なくなる裾野の狭まりが。北海道から沖縄まで50年を超えるスポーツ少年団の平成23年度の登録団体は3万6千(83万人)で、約70種目ある競技団体数の上位10番目にバドミントン(733団数・15,106団員)が位置している。我が校下の小・中校の学級数などからスポ少予備軍の子どもらは減っていないようだが、バドミントンを選ぶ子どもが稀なのだろう。わが子の練習レベルアップのためにも、父母会メンバーによる団員掘り起こしに期待したいところだ。
2003年から、山中スポ少バドメンバー構成と似通った男女比率で、20~30名をはみだすように推移している短大の担当司書科目の教室をふりかえれば、履修生が多かった年度は脱落学生が出たりする反面、初回のレポートから見違える内容を最終回に読ませてくれる学生も現れ、どっちつかずの中間学生層の学習成果を引き揚げてくれたりしたことも。そんな背景には、図書館で働きたいと意気込んでいた学生があまりにも狭き門に直面し、就活で鞍替えしたみたいに教室に来なくなる学生もいたり、司書職に就ける受け皿の貧しい現実が。
短期的な成果を上げるには、少数精鋭グループもありだろうが、定期的にメンバーが入れ替わってゆくスポーツ少年団や学習活動の場が永続するには、生徒や学生として体育館や教室にやってくる未来の主人公を育む裾野の広がりが欠かせない。かって5校下で持ち回り開催していた第7ブロックの大会も、今じゃ残った2校下のスポ少バド対抗戦に様変わり。
富山女短大開学5年目、昭和43年に設置された司書養成課程を選択した科目履修生が50名を超えていたこともあったようだが、これまでに司書資格を取得した二千余名のうち何名が図書館で職を得られたか。卒後の実績も問われようが、富短在学時に附属図書館への不満を抱えながら司書科目を学んだ学生の声が、これまでの附属図書館運営に届いていないようだ。専任教官に恵まれず時間講師に頼らざるを得ない司書課程の現状ではあるが、平成25年秋の開学50周年記念事業に図書館の充実や改善策を盛り込むような働きかけがあったのかどうか。
5年あまり近所の中学のバド部活につきあっていた体育館で、ネットで仕切った床半面を練習前に雑巾がけしながら肩甲骨や股関節を働かせて体幹を養う女子部員が見られたが、なぜか男子部員の雑巾がけ姿は皆無だった。昭和三十年代はじめに入部した中学の剣道の部活でも体育館の雑巾がけから始まったが、寒稽古では校門の除雪が、暑中稽古では夏草刈りが加わったりしていた。
野山や川原遊びからはじまった幼少年期の畑仕事に草むしり、田植えや稲刈り、夏の水撒き、冬の除雪や屋根雪下ろし、肥桶や雑木担ぎ、薪割りそのほか手伝い作業が虚弱児の部活以前の体力作りや道具を使う身体捌きに役立ったかもしれない。
生活風土が違ってしまった現代っ子が体軸を通した動き、股関節や肩甲骨に連なる道具の使い方に目覚める機会はどうなっているのだろう。体育館で取っ組み合いの喧嘩をする団員も、教室で口角泡を飛ばして講論する学生など滅多にいない。附属図書館に勤めていた大学のスポーツ各部対抗バドミントン大会を制したのがバスケ部員だったことがあったが、なるほど彼らは肩甲骨や股関節を働かせる体幹の使い方に秀でていた。
小中学生が技を身につけるのに必要な身体捌き、とくに肩甲骨や股関節の柔らかさを活かす練習も工夫しないと。脚を折り曲げ踵を床に着けて片足開脚ができにくく、膝頭をつま先より前に出さないよう上半身を前傾しないスクワット(屏風座りともいう)となるとほとんどできない。
団員の練習や試合会場など体育館の出入りや学生の教室や図書館の入退室でも、言葉や会釈で挨拶する姿勢も遠のいてきている。場の切り替わりを無意識に読み込めない身体の置き所なさとでもいおうか。50名以上は坐れる教室での20名足らずの履修生の席取りだが、出入り口から遠い窓際と廊下に近い壁側に別れ、その中間では奥の壁側と手前の真ん中あたり、まるで性格分類したように四つの離れ島に座る。
わからない時は先送りしないで、その場で手を挙げ質問をみんなで共有したいのだが、なかなかそうはいかない。授業開始前や、演習課題を解いている合間や、授業終了時に教卓までやってきて質問しがち。提出課題やレポートの余白に予期しないコメントが書き込んだりする学生は窓際や壁側から。意外と奥の方から授業を盛り上げてくれたり。居てくれるだけで教室を明るくする学生がまん中のあたりに。
「答えはどこに書いてありますか」でなかったら「本を読んだり勉強していないからわかりません」というのがこれまで富短の教室で学生とかわしたやりとりの定番になってきている。同調性圧力が働きがちな小・中・高の教室で習い覚えた身の振る舞いから脱皮するには短大の2年間じゃ足りなさそう。
なぜやるかという動機づけがはたらかない練[学]習のための練[学]習にならないようにするにはどうすればよいか。やりすぎないよう練[学]習時意欲が途切れる手前でやめ、練[学]習時間外に持越した意欲であれこれ試すうち、次回の練[学]習が待ち遠しくなるような繰り返し。
練習や授業で〈体育館〉や〈教室〉へ「お願いします」と入り、あるがままの身体を溶け込ませた時空をそれぞれが体験化することによって、それまで知らなかった関係に目覚めた身体が知覚する新たな身体性によって得られた関係性に「ありがとうございました」と一礼して退室するまでの団員や学生の姿勢の強弱が各人の学ぶ力を掘り起こす。とても「試合結果」や「学力テスト」などで測れるようなものではないが、体育館や教室以外でも自らにとって〈師〉となる出会いが〈学力〉を起動させ、教えを乞う心身の座をはたらかせ、さまざまに思考をめぐらす場へといざなう。(2014.03.31)