特にこれと言ったコンセプトのないブログ 2015年10月意識低い系を宣言。

私の辞書に努力と継続と言う文字は無い。
1999年人類滅亡を信じて生きてきたが
その後も惰性で日々を送っている。

今月末にオープン予定の新しいShopping mall.  Chinatown Squareその1

2008年02月28日 | フィリピン
その名もずばりChinatown Square
去年オープンにしたSMよりは小さいけど、Bacolod では、大きい部類ですよ。
場所は、Hall of Justice の隣のLand Bankの隣です。なんで888なのか不明だけど意味あるんでしょうね。
おいしい麻婆豆腐の店でもあるのかな?.

昔話ばかりで恐縮ですが、四川省のたしか成都という街まで、ここがこの料理の発祥の地だったからだと理由でわざわざ食べに行ったことがあります。
めったに食べ物を残さないのですが、この時は辛すぎて食べられずほとんど残しました。挫折でした。
周りの中国人は、東京の人が納豆を食べるかのように平気な顔して食べていました。

888 = 2008 Aug 8

中古携帯電話から見るフィリピン物価事情

2008年02月26日 | フィリピン


実は、携帯電話を今4台持っています。自分で使っているのは1台だけです。
他のは以前お金を貸しても返ってこないことを学んだので、担保として預かったのです。それが2年以上前。担保をとっても結局お金は返ってきていません。

最近、中古の携帯電話が値崩れ的に安くなっています。一番安いのはP540(Nokia3210)当時P1500貸した担保にしたモデルも今は、P790になってしまった。

ここからが本題なのですが、P790(約2400円?)の中古の携帯を、デパートの店員として働いている人が買うには、3日分以上賃金が必要なのです。
実際、それより低い日給P150で働いている職種の人も多いので、それを基に考えると5日分の給料に匹敵するってことです。
日本の3~5日分の賃金だったら、アルバイトでも2~5万円くらいにはなるのでは?
そう考えると、中古携帯電話は、まだ万人にとって激安というわけでもないように思います。
 
By jj
City of Smile, Bacolod

What is this? Part 2

2008年02月26日 | フィリピン

Hint
これも野菜です。
ある果物のつぼみです。
その果実は日本でも昔から人気があります。

前回の赤い物体はニワトリの血です。これをゆでたものは焼き鳥の材料として定番です。
その名もずばりそのままドゴ(血)味は例によって食べたからのお楽しみということにしておきます。

By jj
At the Supermarket of Robinson
City of Smile, Bacolod

神社の狛犬の先祖?Chinatown Square その2

2008年02月26日 | フィリピン

入り口の両脇にでんと構え、中華街らしさを演出。

三越デパート入り口のライオンの像が懐かしい今日この頃。
バラの花の包装紙、それは高島屋だってば。
以前(1989)パリの蚤の市で財布をすられたとき、クレジットカードの会社に紛失届けの電話をフランス語してくれたのはパリの松坂屋で働いていた日本人のお兄さん。
人の親切がこれほど身にしみてありがたく感じたことはありませんでした。

そんなわけで、
みなさん、パリに足を運んだ際は、お土産は松坂屋で買いましょう。
場所は、パリで一番大きいと言われていた地元のデパートの中にあります。


話がわき道のそれてしまったが、INASALと言うローカルフードで人気のある店が入り口の脇に見える、やはり日本のチャイナタウンとは違う?

By jj
At the Chinatown Square
City of Smile, Bacolod

問題はそれだけではなかった1

2008年02月22日 | フィリピン
問題はそれだけではなかった1、
今まで田んぼの管理をしていたテナントの爺さんが他界し、その息子が後を継いだのだが、この息子は働き者ではないようで、植えた苗を苗を半分以上枯らしてしまった。結局収穫できたのはもち米が米袋に1つ半。これを精米したらなんと米袋の4分の1以下に減少、買ったほうが安いではないか!しかも次に田んぼを見に行ったら干からびてひびが入っているではないか、苗は一本も植わっていない。今こうして回想するだけでも疲れる。


問題はそれだけではなかった2
ミンダナオの東海岸は雨が多かった。時には雨が3日間降り続くこともあった。当然川の水も増水する。
なんと、川が増水するたびに濁流で土地が削られてしまうのだ。一番初めにそこを視察したときには、休憩のために建てられた小さな小屋があった、何ヵ月後かにその場所は川辺になってしまっていた。
ココナッツの木も何十本失われたかわからない。以前はこれほど土地が削られることはなかったというはなしだった。温暖化の影響?

要はそういう問題があったから何も事情を知らない外国人に売りつけたのだ。
今、この川沿いの土地がどうなっているかは知らないが、4分の1は減少しているのではないだろうか。
どっちにしろ外国国籍の人の名義で土地の登記は出来ないのだから、これは自分が代金を支払った土地であるだけで、法的にそこを所有している根拠はない。

By jj
Bacolod City Philippines

The beginning Mindanao 1

2008年02月21日 | フィリピン


フィリピん1年目は損の嵐が吹き始めた年だった。
これが問題なのだ、結局誰かに名義を借りるということして、ミンダナオのビーチから徒歩一分のところにある床面積200平米の家一軒おまけにビーチまでの土地も全部込みで約1800平米、これがたったの75万ペソ。名義はそのあたり数ヘクタールが祖父のもので、財産分与後も名義変更はしていないのでそのままにしておけばいいという言葉と、弁護士に書類を作ってもらいそこには自分の名前が書かれていたので、いざと言うときは何とかなると思い決断した。
後日解ったことだがその大きな家は、大体この辺が自分の土地とお爺さんら聞いているいう感じで建てられた物なので、隣の土地にはみ出しているというではないか、真相をハッキリさせようとわざわざ一万ペソを支払って測量をすることになった。困ったことに隣の土地の測量士がここだという境界線と今回の測量で出した境界線が一致しないのだ。ただ悲しいことにどちらの境界線が正しいにせよその家の少なくとも3分の1は土地の境界からはみ出したところに鎮座していることがわかった。なるほど、いわくつきの物件だったのだ。屋根に上ってみる景色はリゾートホテルから眺めるビーチのようにすばらしかったので2階を増築と考えていたが、この事実を知ってからどうでもよくなってしまった。

餅は餅屋

2008年02月20日 | フィリピン
餅は餅屋

金を貸して散々損したと言うのに、金貸しで儲けようと考えた。
というのも、実に多くのインド人が金貸し業で生計を立てているのだ。
インド人の金貸しは、ボンバイもしくはトルコと呼ばれている。
たしかにトルコ人の同業者をミンダナオで見たことがある。
はじめにはじめたときは2万ペソ、今まで損した額に比べたら遊びのような額だった
ボンバイの利息は、40日で20%。
これだけでも驚異的な闇金融的高利なのだがその計算方法が驚異的だった。
たとえば1,000ペソを借りる、そこに利息の20%を加算し、1,200ペソ、
それを40日で分割し、借りた翌日から返済がはじまる。
つまり1日P30を40日間支払うことになるのだ。
金利の計算に詳しい人がいたら教えてほしいのだが、実質年利は何%になるだろうか。

そんなわけで、これの真似をした。はじめは自分で集金していたが、馬鹿らしくなり近所に住み金も貸していたAおばさんを雇うことにした。借金のある人を金貸し事業に雇うのはもっとも不適切だという原則を忘れていた。
ありがたいことに、Aは新しい借主をどんどん見つけてくれたので、資本として出費した総額があっという間に10万ペソを超えた。計算上は毎月3万ペソ近い収入があることになる。と喜んでいた。

しかし、3ヶ月程経過した頃から返済が滞り始めた。理由は多重債務、失業など説明された。
ある日、路上で金を貸しているオバさんがのん気に立ち話をしていたので、最近返済が滞っているけどと訊くと烈火のごとく怒りまくり、もうほとんど返しているといった。集金を任せたおばさんAに事情をきくと、それからその旦那にも金を貸しそれの返済が遅れているということだった。

次の月、再びそのおばさんが立ち話をしていたので金の催促を旦那にしてくれというと、その近くに旦那本人がいて、俺は金なんか借りてないとわめき散らした。ここで話をしても埒が明かないのでAのところへいくことになった。

そして事実を知った。生活に困ったAが回収した金を使い込んでいたのだ。それどころか、架空名義をつくり融資をしたように装い、自分で使い込んでもいた。Aはこの発覚がよほどショックだったのか、持病の糖尿病、心臓病を悪化させ入院した。小さなコミニティーだったので、Aの入院とそのいきさつはたちどころに噂として広まった。自分の所有する田んぼとサトウキビ畑の肥料購入や、家の改築として結局A約80万ペソを使い込んだことを認めた。その外は事実不良債権だという。米の収穫で返済を予定していたが悪天候で、収量が少なく失敗。
息子が船乗りとして働き始めたら、それで返済をすると約束した。
このAおばさんは、フィリピン人の典型なのだ。目の前に現金があったら、それが自分のものではないとわかっていても使ってします。だからこのAおばさんには金の催促は一切しなかった。しかし、このときから以前からよくなかった体調をさらに悪化させ、数ヵ月後に他界した。まだ60歳前後だった。
人との出会いは時として人生そのものをを変える。

By jj
Bacolod City Philippines

iroiro

2008年02月20日 | フィリピン
一番大きな損は150万ペソ以上。
旧日本軍が隠した埋蔵金を掘り当てると言う話を聞いて
欲に目が眩んだ、おまけに日本人の年金生活者が相手だったので安易に信用してしまった。
しかもこのとき既にフィイリピンで100万ペソ以上損していたので、これを取り返すいい機会だとまじめに思っていた。実は前述のホールドアッパーに盗られた2万ペソもこのための資金に使うつもりだったのだ。まあ今にして思えばどっちにしてもあの金は失くす運命にあったのだ。

結局、金堀のために代金90万ペソでパワーショベル(ユンボ)を購入した。
話では新品のように整備されていると聞いていたので、わくわくしながら見に行った。
そこには全体を黄色く再塗装した1970年代製の超古いパワーショベルが一台。やられたと思ったが後の祭りである。
これを購入した際、私は日本にいて(上記ATMカード再発行のため)フィリピんナショナルバンクの東京支店からこの爺の口座に100万ペソ送金したのだ。この日本人の爺さんに購入を任せたのがはじめの失敗だった。
なんとこの爺さん、自分がいつも嘘つきと怒鳴り散らしているフィリピン人の女房Jに全てを任せてしまったのだ
その結果どんなに高く見積もっても30万ペソくらいの価値しかなさそうなパワーショベルに90万ペソを支払う羽目に、Jは、しきりに日本製だからと強調していた。たしかにKATOと言うメーカーの物だった。
しかし、この時点ではテレビ番組制作に絡んだ投資の利益を使えるという計算だったのでまだ気分的には余裕があった。

当然、この古い重機を稼動し始めると故障の連続。そんなわけで、3ヶ月もすると部品代修理代それに運転資金、人件費、燃料代、電気を引き込むためのワイヤー代等々で計P50万ほど追加した。この頃から、このままではいくら金をつぎ込んでも足りない、底なし沼に金を投げ込んでいると同じであることを認識しはじめた。(気づくのが遅いって言うの!)しかも、この時点で穴の深さはわずか15mほど、修理に時間がかかり、大きな岩と地下水に邪魔され作業が進まないのだ。電動ポンプで水をくみ上げて掘り下げ長さ5m位の大きな石にぶつかり、それにワイヤーを括り付けユンボで引き上げる、その作業をしている穴はには地下水みちてします。おまけにその電動ポンプも泥水をくみ上げたことが原因で故障し、修理に数日を要する始末。作業が進展しない大きな理由はJの弟であるフィリピン人の現場監督が自分の思いつきであっちを掘ったりこっちを掘ったりと作業範囲を広げていたのも災いした。本来なら岩を粉砕する機械を購入し使うべきなのだが、この頃テレビ番組制作に投資した金が返済期日を迎えていたのにもかかわらずP1も返済されないと事情とあいまって、追加で博打を打つ根性もなくなっていた。要は、負け犬になったのだ。

その後このパワーショベルをレンタルに出せば儲かると言われそれを実行するもこちらには1ペソも入ってこない、何でも貸した会社の社長が金を払わないというではないか、真相は不明だが120%嘘である。この頃には、一攫千金の幻想も見えなくなり、もうどうでもよくなってしまっていた。

しばらくするとMさんという日本人が日本から来て、あの爺さんが住んでいる家と車は数年前まで勤めていたトヨタ自動車関連の会社を早期依願退職をしてもらった退職金の一部で買ったもので、日本で始めた会社経営が軌道に乗るまで、日本にいなければならないので、その間あの爺さんに家の管理の代わりにただで貸していたのだが、爺さんの女房の連れ子の名義を借りることてしまっているので乗っ取られたも同然だとこぼしていた。
このMさん、会社経営は破綻し自分の家に戻ってきたのだが、滞在中も嫌がらせが続き結局Mさんは自分が代金を支払った家を出て行く羽目に。Mさんはフィリピン人配偶者がいて、結婚式の際に通訳を探し紹介されたのが爺の女房Jだった、結婚という人生のスタート(もっともMさんはこれが3度目なので再々スタート)が人生の破局のスタートでもあったのだ。

そして、このMさんも金堀の作業にかなりの額を出資していることも知る。なんと日本人だからと安易に信用したこの爺は、セミプロのパクリ屋だったのだ。欲に目が眩み、こんな人物を信じた自分がつくづく嫌になった。Mさんも同じ日本人に騙されたのが余計に腹が立つと何度も繰り返し、そのころ女房を信じていなかった自分のことをしきりに反省。

この年金暮らしの爺さんもそれから半年して大腸癌で入院、退院後骨と皮だけの状態まで極限に痩せこけてしまった。その姿は表情こそは異なるが、仏陀苦行像を髣髴させるものがあった。死相が浮いているというより、死人が話をしているようだった。「この国に骨を埋める覚悟がないなら、日本に帰ったほうがいいよ。」と言うと、NHKの(海外放送)健康番組で初期の癌はビタミンを摂取していれば消えるといってたから大丈夫だと言っていた。実は、この爺さんの癌、末期症状で摘出不能状態だったのだが、本人には大腸の癌は摘出したが肺に癌が転移している、しかしこれは初期状態だから薬物治療で完治する、と告知されていたのだ。そして山下ゴールドを掘り出すまでは絶対に死なん!(関西人)と豪語したのだが、その僅か1ヵ月後他界した。欲は身を滅ぼす。

By jj
Bacolod City Philippines

どうりで痛かったわけだと

2008年02月15日 | フィリピン
同じ年に
ホールドアッパーにも遭遇した
クリスマスを間近に控えた
ある日の晩
愚かにも人通りも、車の通りも少ない道を
のこのこ一人で歩いていた

ラサールという大学のすぐ近くで
金持ちの家がライトアップした飾り付けを並べて綺麗だった
治安は悪くないと楽観していた
まだフィリピンをわかっていなかった

家まで後50mというところで
トライシカルが後ろから近づいてきた
どういうわけか減速をし、停止するや否や
男が三人飛び降りてきて、そのうちの一人に体当たりを食らった
まったくの不意打ちだった
彼等は銀色に輝く拳銃を持っていた
リボルバーではなく、半自動式のものだった

後になって思い出すとあれらは全ておもちゃだった思う
半自動式の拳銃は高価で貧乏人には入手できないのだ
錆が出ている小口径のリボルバーなら本物の可能性が高い


正直な話、生まれて初めて怖いと思った
それでも無意識に財布を押さえて抵抗していた
体中を蹴られた

というのも昼間ロビンソンデパートで
ATMから2万ペソをおろしたばかりだったのだ
そのうちの一発がアバラを直撃した

携帯電話も取られた
この事件以降ミンダナオの友達と音信不通になったのが残念だった

一番困ったのは日本のCitibankのATMカードも財布といっしょに取られたことだ
これがないと日本の口座にあるお金を下ろせないのだ

犯人たちが発ち去った後
全身の痛みをこらえてなんとか立ちあがることが出来た

すると別のトライシカルが近づいてきた
男が運転、同乗していた女がタバコを吸いながら
ホールドアッパーにやられたのかと声をかけてきた
そうだと答えた、するとトラシカルの色は緑だったと教えてくれた

しかし、トライカルの色はオレンジだったのをハッキリ覚えていた
警察に誤った情報を通報させるためにこんな手の込んだ小細工をしたのだ
この2人も犯人の仲間だ、そう確信した
反論しても仕方ないし、そんな力さえ残っていなかった
家まで送るといわれたが強盗に家を教えるわけには行かなかったので断った

その日の晩は痛みが激しく満足に寝られなかった
そしてその痛みは2ヶ月以上続いた、毎晩寝返りを打つのにも苦労した
以前、あばら骨はギブスができないので
医者にかかっても同じだと聞いたことがあったので
医者には行かなかった

年が明けた2月
CitibankのATMを再発行するために日本に帰ることにした
寒さのためかあばら骨の痛みが再発した
カードが再発行されてから懲りずにフィリピンに戻った

その事件から半年後、肺炎にかかりレントゲン撮影をした
医者が随分ひどい怪我をしたね、あばら骨が3本折れてるよ
もうくっついちゃってるけどと言うではないか

なるほど
どうりで痛かったわけだと納得した

By jj
Bacolod City Philippines

ミンダナオの田舎からバコロドに移転した年のことだ

2008年02月15日 | フィリピン
もう4年前のことだ
ミンダナオの田舎からバコロドに移転した年のことだ

日本に帰ったとき京セラのデジカメを買った
たしか3万円くらいだった
日本では実家で飼っていた
アメリカンショートヘアにちょっと似ている
猫の写真を数枚撮った

そのころバコロドではデジカメはあまり普及していなかった
値段も随分高かったように記憶している

その時宿泊していた宿の近所の子どもや
宿の近くに赤十字で介護士なるコースを受講していた
新しく知り合った友達達の写真を20枚くらい撮った
そのうちの一人が、冗談半分にこれ私に頂戴?と言ったのをおぼえている


宿に帰ってもやることもないのでダウンタウンを一人で歩いていた
そしてプラザのベンチに座って休むことにした
その辺にたむろしている子どもたちが
いかにも困ったような表情を作りお金をくれとやってきた
小汚い身なりをしていたので1ペソづつあげることにした

しばらくするとあきらかにいかがわしそうな女が2人話しかけてきた
一人は24歳と言ったがどう見ても37歳にしか見えなかった
5ペソくれと言うので5ペソ上げるから向こうへ行ってくれといった
それでもいっこうにはなれず
このショルダーバッグの中には何が入っているんだときかれたので
カメラとか携帯電話、それにパスポートも入っていると馬鹿正直に答えた

いよいよ面倒になり場所を移動することにした
するとまたその怪しげな女2人組みがツイテ来るではないか
再び場所を変えてもしばらくするとまたその2人が現れる
これは絶対財布をするチャンスを狙っているのだと確信した
だからはじめに5ペソをねだり、現金の場所を確認し所持品を確認する意味で
色々と質問したのだ
まあ、気をつけていれば大丈夫と思った

そんなことを思っていると危なそうな男がやってきて
金のネックレスをひったくってきたから買ってくれと
チェーンの切れたネックレスを差し出した、そんな犯罪に関わるわけにはいかないので
いらないと断るもしつこくすすめるそんなやり取りをしている間に
いかがわし女2人組みがスーッと立ち去った
そして男もそれを売るのをあきらめて去って行った

アーやれやれ、これでせいせいしたと思った。
ふとポケットに手を入れると何かがおかしいことを感じた

小銭入れがなくなっていたのだ、まあ200ペソも入っていなかったからいいや
と思い、念のためショルダーバックをみるとジッパーが開いているではないか
このとき全身から血の気が引いた。いやな予感がしたと言うより確信したのだ

そしてその確信通りわざわざ日本で買ってきたデジカメがなくなっていた
呆然としたとはまさにこのときの心境だ
あの危なそうな男は怪しげな女達とグルだったのだ。
それでもパスポートと携帯電話は無事だったので
まあ、いいやと気持ちを切り替えあきらめることにした

しかもポケットの中に小銭が残っていたので宿までJeepに乗って帰ることも出来た
このときの5ペソ以上に価値のあったお金はその後ない。

後日友達にカメラを盗られた事を話すと案の定
だからあの時私にくれてればよかったのにと言われた。
たしかにそのほうがよかった

By jj
Bacolod City Philippines

The beginning Mindanao 1

2008年02月15日 | フィリピン


フィリピん1年目は損の嵐が吹き始めた年だった。
これが問題なのだ、結局誰かに名義を借りるということして、ミンダナオのビーチから徒歩一分のところにある床面積200平米の家一軒おまけにビーチまでの土地も全部込みで約1800平米、これがたったの75万ペソ。名義はそのあたり数ヘクタールが祖父のもので、財産分与後も名義変更はしていないのでそのままにしておけばいいという言葉と、弁護士に書類を作ってもらいそこには自分の名前が書かれていたので、いざと言うときは何とかなると思い決断した。
後日解ったことだがその大きな家は、大体この辺が自分の土地とお爺さんら聞いているいう感じで建てられた物なので、隣の土地にはみ出しているというではないか、真相をハッキリさせようとわざわざ一万ペソを支払って測量をすることになった。困ったことに隣の土地の測量士がここだという境界線と今回の測量で出した境界線が一致しないのだ。ただ悲しいことにどちらの境界線が正しいにせよその家の少なくとも3分の1は土地の境界からはみ出したところに鎮座していることがわかった。なるほど、いわくつきの物件だったのだ。屋根に上ってみる景色はリゾートホテルから眺めるビーチのようにすばらしかったので2階を増築と考えていたが、この事実を知ってからどうでもよくなってしまった。

By jj
Bacolod City Philippines