鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

鷹泊小学校 校歌も閉校で消滅

2008年02月07日 | Weblog
鷹泊小学校は、昭和37年が60周年だったはず。 それまでなぜか校歌がなかったが、開校60周年の前後に待望の校歌が制定され、以後卒業式などで歌われるようになった。自然豊かな鷹泊を格調高く詠んだ歌詞であった。
 ♪ 雲流れ行く 浅羽山 かげろう燃ゆる 黒土や 故郷の地に明けくれを 学ぶ我らに光あり ♪  2番以下略 
札幌へのバス見学旅行があったおり、札幌円山公園の芝生で、作曲してくれた先生の前でのアコーデオン伴奏による斉唱は子供心にも感慨深いものだった。その校歌も学校がなくなってしまったので、35年程の活躍で自然消滅の形である。
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鷹泊小学校のなつかしい思い出3

2008年02月06日 | Weblog
 鷹泊は降雪の多いだけでなく、厳寒地でもあった。今は地球温暖化で零下30度以下になるのは稀だと思うが、当時は年に何回かは零下30度以下になっていた。朝方に零下30度以下になれば 授業開始時間が1時間遅れになる有線放送があった。有線放送といっても今のユーセンとかカラオケとは違う農村有線放送のことだ。まだ電気がなく、当然電話もない時の通信手段として各家に真四角の有線ラジオがあった。 学校の職員室に放送設備の本機が置いてあった。 記憶にある有線ラジオは故障がちで、そのうち零下30度以下の通知はサイレンを鳴らす方法に変わった。30年代に入って間もなく全世帯が電化され、40年代には地域全体で電話使用可能となった。田舎でもあっというまの時代の流れだ。 
 写真は雪の中の初代鷹泊小中学校校舎
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鷹泊小学校のなつかしい思い出2 

2008年02月04日 | Weblog
 雪深い鷹泊で冬の通学は、特に遠いペンケ、ヌップ、竜水地区からは大変だった。除雪されていない道なき道を、ゴム長靴の上を雪が入らないように縄や紐で縛っての通学であった。大雪の日は学校へ着いた時は、先生が玄関で待ち構えていてくれて、ほうきで全身の雪はらい(雪をほろうと言っていたが、これは方言かな)をして、それから教室へ入った。
教室の中はだるまストーブで暖かく、ストーブの上にはブリキの蒸発皿が乗っていた。石炭を十能でくべて、 デレッキで中をかきまわす。小使いさん(今は用務員さん)が毎朝、各教室のストーブに火をつけてまわるのも大変だったろうなと思い出す。当時は鷹泊では学校給食はなく、弁当持参だった。新聞紙に包んだ弁当をストーブの周りに置いておき、お昼に暖かい弁当を食べたのも懐かしい記憶のひとこまだ。冷害で凶作の年には、義援給食という恩恵にあずかったこともある。コッペパンと脱脂粉乳とのセットである。今の時代ならまずい給食だと思うかもしれないが当時は有り難かった。
雪を教室に入れての大掃除 わら縄で作ったたわしでゴシゴシこすったりしたのもなつかしい思い出だ。 

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鷹泊小学校のなつかしい思い出

2008年02月01日 | Weblog
9年間通った鷹泊小中学校。その校舎の跡地に立っていると、突然、授業開始終了のベルの音を思い出した。卒業後、いろんなところで授業の開始終わりを告げるチャイム音を経験したが、ここ鷹泊のは、まるで火災報知器のような強烈な音だった。
 また校舎は、 生徒数が増えて教室の増設をかさねた校舎だったためか、教室間のしきり戸が容易に取り外し可能だったのが印象に残っている。しきり戸をはずした連結教室に各学年が集まり、映画鑑賞することも度々あった。地元に映画館がなく、テレビも一部の家でやっと買って見れるようになった時代だったから、映画は興味深かった。映画を見せて、 感想文を書かせるといった授業でもあった。
文部省推薦の教育映画が多かったが、二十四の瞳 、風の又三郎などが記憶に残っている。    写真は記念誌より転載した往時の鷹泊小中学校
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