1995年(平成7年)1月17日早朝、阪神・淡路大震災が兵庫県南部を襲い、多くの尊い人命が失われ、数多くの人々が被災しました。
西宮の木造の自宅は、幸い半壊ですんだものの、近隣は大きな被害を受けました。
震災の直後、私は創価学会の西宮平和講堂に駆けつけ、避難してきた近隣の被災者の方々の救護にあたりました。
翌日には”陸の孤島”にーどうやって来られたのかードクター部の森田修平ドクター部長(当時)と白樺会の人たちの顔がありました。
また関西、全国の学会員の人達の夜を徹しての応援で、薬や水、食料の不足に悩まされることなく過ごすことができました。
私の勤め先の神戸大学病院も、内部の設備に大きな被害を受けました。
病院には自転車で片道3時間かけて、大変な苦労をしながら通勤し、寝食を忘れて救急医療にあたっていました。
やがて過労で10月には動けなくなり、入院することになりました。
当初、”1週間位の安静で退院だろう”と、油断していたのですが、難病中の難病の「拡張型心筋症」との診断。
しかも、心不全がひどい拡張型心筋症なので、主治医からは「余命3ヶ月」と宣告されました。
この病は心臓移植以外に治療法がなく、しかも当時は臓器移植法が制定される前で、日本では移植は受けられませんでした。
拡張型心筋症は原因不明で、心臓の細胞が壊死し、のこされた部分は繊維になり、心臓は収縮力も柔軟性も無くなり、ついには心不全になって死亡するという難病で、5年以上生きた人の例が世界的に無く、しかも心不全の状態になっているため、末期の状態でした。
私も医者の端くれですから、”医学的には助からない”ということがよく分かりました。
最初は絶望感で打ちひしがれましたが、過去、担当した各地の「仏法セミナー」で、重いガンに罹りながら、信心で克服していった多くの学会員の姿を語り、「この信心を根本にすれば、どんな病気も克服できます!」と話していました。
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