慶喜

心意気
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安土桃山時代5(九州・小田原の戦い)

2022年06月18日 | 歴史
🌸九州攻め

 ☆薩摩の雄・島津氏を服従させ西日本を完全制圧した秀吉

安土桃山時代の九州攻め
 ☆九州は島津四兄弟の活躍で島津氏の九州統一も目前に迫っていた
 ☆秀吉は私戦を禁じる惣無事令を発出したが、島津氏はこれを無視
 ☆秀吉は、大友宗麟の救援要請に応じる形で九州に兵を送り込んだ
 *初めに長宗我部元親らが派遣されたが、苦戦を強いられた
 *戸次川の戦いで大敗北してしまう
 ☆その後、秀長と秀吉が相次いで九州に入り
 ☆大軍に耐えかねた島津はとうとう降伏し、秀吉に降る

20万の大軍が九州を蹂躙
 
☆九州攻めを決めた秀吉、中国。四国勢に大友救援を命じた
 ☆四国軍は、戸次川で大敗し翌年、約20万の豊臣軍が九州へ上陸
 ☆追い込まれた島津軍は根白坂で最後の決戦を挑むも敗北
 ☆当主・義久が降伏を表明し、西日本は秀吉の支配下となった

「九州三国志」を制した島津軍も大軍には敵わず
 ☆島津四兄弟九州統一まであと一歩に迫る
 *龍造寺・大友・島津氏が鼎立する「九州三国志」を制する
 ☆豊臣軍の侵攻により北九州を失陥
 ☆島津軍は根白坂の戦いに敗れ日向を制圧される
 *義久は徹底抗戦を主張する義弘・歳久を退け、豊臣軍に降伏
 *義弘も降伏するが、歳久だけは最後まで抵抗し続けた

敗軍の将・島津義久
 ☆島津義久勇猛な弟をまとめ九州統―に手をかける
 ☆島津四兄弟の長男弟たちとともに九州統一を進めた
 ☆耳川の戦いで大友氏を破り、沖田畷の戦いで龍造寺氏を倒して
 *九州の覇者まであと一歩まで迫る
 ☆停戦令違反とされ豊臣軍の討伐を受ける
 *豊臣政権下では弟・義弘が重用され事実上の当主として扱われた
 *本国においては義久が実権を握り続けた

🌸小田原攻め

 ☆関東に覇を唱えた北条氏も総勢20万の豊臣軍に屈服

安土桃山時代の小田原攻め
 ☆秀吉に従わなかった小田原の北条氏
 ☆北条氏は、惣無手令も無視
 *真田氏との間で沼田の領上問題が勃発した
 *秀吉は小田原攻めの宣戦布告を出した
 
☆秀吉に応える形で全国の大名が兵をあげ
 *北陸からの軍勢、土佐や志摩からの水軍、秀吉率いる本隊
 *3方向から小田原に攻め込んだ
 ☆北条氏政・氏直父子は、小田原城で籠城を続けた
 *包囲開始から3カ月で降伏
 ☆北条氏は減亡し、秀吉の関東平定が達成された

秀吉の大軍小田原城を包囲した
 ☆北条攻めを決めた秀吉は全国から約20万の大軍を招集
 ☆前線基地・山中城を落とし小田原城を包囲した
 ☆秀吉は小田原城を孤立させるため関東中に築かれた支城を落とす
 ☆支城の陥落により追い詰められた氏直は降伏を決定
 *氏直は高野山追放、氏政は切腹となり、北条氏は減亡する.

巨大陣城の出現で北条軍の士気は低下
 ☆小田原城を囲む秀吉は、陣城・石垣山城を築く
 ☆陣城は天守・石垣を備えた石垣山城を築いた
 ☆秀吉は、側室・淀殿を呼び能や茶会を催すなど
 *余裕ぶりをアピールし北条軍に心理的圧迫を加えた
 ☆小田原城から3Kmの距離に出現した巨大な城
 *北条軍は動揺し、士気は大きく低下する

勝軍の将・豊臣秀吉
 ☆身一つから天下統一を成し遂げる
 ☆尾張で足軽の子として生まれた
 *信長に仕えて武功を重ねて名を上げる
 ☆信長死後、後継者の地位を確立させ、天下統一を実現
 ☆「人たらし」と称されるほど人心掌握に長けていた
 *小田原攻めの最中に伊達政宗が参陣してきた時
 *政宗に刀を預けて二人きりで石垣山城を案内するなど
 *度量の大きさを見せつけたという
                        (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本の合戦』








安土桃山時代5(九州・小田原の戦い)
『日本の合戦』記事より画像引用)

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