慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

おみやげ(モロッコ)

2017年12月02日 | 観光
モロッコのおみやげ

出典、地球の歩き方(モロッコ)、TABBIO.NET

モロッコ革製品
モロッコの主要産業品のひとつ
羊、牛、ヤギなどの皮が用いられる
ヤギ革は丈夫で特有の臭いも少なく、高価であることが多
バブーシュ(モロッコ独自の革のスリッパ)
ブックカバー、バッグ、財布等

ナチュラルコスメ
モロッコ特産のアルガンオイルを使つたコスメ
天然素材を使用した美容化粧品
アトラス山脈の粘土から造られるガスールも有名

布製品
羊毛や綿などを使つた布製品も有名
絨毯やアラブ服、リネン類などは洗練されたデザイン多い

陶器
フェズブルーで有名な陶器の産地、フェズと」サフイ
質のよい手作業で作られた色鮮やかな色付けが特徴
幾何学模様のが美しさは圧巻

そのほかのおみやげ
寄木細工(幾何学模様)
カーテンタッセル(サポテンの繊維を紡いだものでキーホルダーが人気)
スパイス(モロッコ料理には欠かせない各種スパイス)
籐製品(モロッコは、高級素材ラフイアヤシが育つ国)
アルガフオイル(食用)
クスクス(日本に持ちかえり、モロッコの味を再現)












おみやげ(モロッコ)(TABBIO.NETより画像引用)



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柳原 白蓮(闇の中で光を探して)

2017年12月02日 | 歴史上の人物
柳原 白蓮(燁子)(歌人・小説)

柳原 白蓮生誕から結婚まで
 ☆父は柳原前光伯爵、母は前光の妾の柳橋芸者
 ☆大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる
 ☆燁子は柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍
 ☆生母は、燁子3歳の時に病死し、9歳で子爵・北小路隨光の養女とな
柳原 白蓮、最初の結婚と離婚
 ☆北小路資武が結婚相手である事など知らなかった燁子は資武に恐怖して嫌いぬく
 ☆資武に「お前なんか妾の子だ」と罵倒され自分の出生を知らされる
 ☆結婚したが、夫とは夫婦の愛情も無く、燁子は孤独を深めるばかりであった
 ☆燁子は、子供は残す条件で離婚が成立し20歳で実家に戻った
 ☆燁子は「出戻り」となり、門の外に一歩も出る事のない幽閉同然の生活となる
 ☆燁子は、東洋英和女学校に23歳で編入学し、寄宿舎生活をおくる
 ☆佐佐木信綱主宰である短歌の竹柏会に入門する
 ☆燁子は、慈善事業に関心を持つなど見聞を広めた
柳原 白蓮再婚
 ☆親子ほどの年齢差・身分・教養ともあまりに不釣り合いな結婚
 ☆炭鉱王で日の出の勢いの事業家で富豪との結婚「華族の令嬢が売物に出た」と話題になった
 ☆炭鉱王伝右衛門は、若い頃の放蕩が過ぎて子供ができない身体
 ☆燁子は実子を持つ事が出来ない不安定な立場で、大勢の使用人と暮らす複雑な大家族の女主人となる
 ☆女中頭のサキは家中を切り回し、妾の立場で家を取り仕切るサキと、燁子は激しく対立する
 ☆歪んだ結婚生活の懊悩・孤独を燁子はひたすら短歌に託し、竹柏会の機関誌『心の花』に発表し続けた
柳原 白蓮と佐佐木信綱
 ☆佐佐木は、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、雅号の使用を勧めで「白蓮」と名乗る
 ☆『心の花』の叢書として処女作の歌集『踏絵』を自費出版する
 ☆歌壇で話題となり、新聞にも好意的に取り上げられる
 ☆燁子は夫に気を遣い、様々な相手と歌や手紙の上で仮想的な恋愛の駆け引きをし心の救いを求めていた
柳原 白蓮恋に生きる
 ☆宮崎龍介は年下で、東京帝国大学法科に在籍しながら新人会を結成して労働運動に打ち込んでいた
 ☆燁子は龍介に「自分の生活はものを書くだけで、何の楽しみもない」という境遇を語っている
 ☆龍介との日常の報告と恋文が混じる文通が始まる
 ☆龍介は、燁子が誰に対しても率直に意見を述べる珍しい個性に惹きつけられた
 ☆龍介の周囲で燁子との関係の噂が広まり、燁子の心を一層龍介に傾かせた
 ☆燁子から龍介に「今の状態から一刻も早く私を救い出して欲しい」といった趣旨の手紙が届く
 ☆京都での逢瀬で燁子は龍介の子を身もごり、道ならぬ恋は命がけであった
 ☆龍介は新人会時代の仲間である朝日新聞記者の早川二郎らに相談して、燁子出奔の計画を練り決行した
 ☆白蓮事件(燁子36歳、龍介29歳)
柳原 白蓮再々婚
 ☆生まれた長男・香織と共に宮崎家の人となった燁子は、経験した事のない経済的困窮に直面する
 ☆龍介に結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父が残した莫大な借金があった
 ☆燁子は小説を執筆し、歌集も出版、色紙や講演の依頼も引き受けた
 (龍介が動けなかった3年間は燁子の筆一本で家計を支えた)
 ☆この頃、吉原遊郭から脱出した花魁の森光子が宮崎家に駆け込んで助けを求めている
 ☆苦界にあった女性達に白蓮は憧れの存在であった
 ☆龍介は第一回普通選挙に立候補するが、演説会場で昏倒し喀血して絶対安静の身となる
 ☆宮崎家を頼る労働運動関係者や中国人留学生、吉原から脱出した娼妓らを食客として世話をした。
柳原 白蓮の戦争と晩年
 ☆盧溝橋事件で中国との和平工作で、龍介が近衛文麿首相の依頼で上海へ派遣されるが失敗
 ☆長男・香織が学徒出陣し戦死した
 ☆世界連邦婦人部部長としての講演会で、出奔事件以来年初めて九州・福岡の地を訪れている。
 ☆皇太子と平民である正田美智子との結婚
 (香淳皇后、雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、梨本伊都子、松平信子らと共に激しく反対した)
 ☆緑内障で徐々に両眼の視力を失い、龍介の手厚い介護のもと、娘夫婦に見守られ穏やかな晩年をすごす
出典、NHK「ザ プロファイラー」、WIKIPEDIA













柳原 白蓮(闇の中で光を探して)(「ザ プロファイラー」テレビ画面より画像引用)
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横暴者・狼藉を行つた者(平重衡)

2017年12月02日 | 歴史上の人物
平重衡(南都寺院を火の海にした「仏敵」)

平重衡(平清盛の5男)
 ☆平重衡の有名な悪行は主に神仏に関するもの
 (当時は、神仏には特別な力があるものとされていた時代)
 ☆興福寺・東大寺に火を放ち、大仏殿を焼け野原にした
平重衡謀反軍を迎え撃つ
 ☆源頼政が企てた平家打倒の謀叛
 ☆平重衡平家打倒に呼応した興福寺、東大寺に攻撃を仕掛ける
 ☆重衡はこのとき総大将として参加し、奈良ヘ4万の軍勢を率いた
南都寺院での戦いが夜まで続く
 ☆重衡は同士討ちを避けるために「火を灯せ」と命令をくだす
 ☆松明代わりに民家に火をつけると風に煽られ、その火は興福寺、東大寺にまで及ぶ
 ☆南部の大衆は逃げ惑い、寺の内へと急いだ
 ☆大仏殿の2階に登り、重衡の軍勢から逃れる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本史”悪役”100人(世界文化社)』


横暴者・狼藉を行つた者(平重衡)(『日本史”悪役”100人』記事より画像引用)

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