慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「もうひとつの関ヶ原」会津征伐

2017年10月29日 | 歴史
徳川家康による会津征伐(上杉景勝)が関ヶ原の戦いの幕開

豊臣秀吉の死後、家康は諸大名の屋敷を頻繁に訪問
 ☆豊臣政権の法令「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものであった
 ☆訪問は他の大老・奉行には無断で行われていた
家康はこの時期、他の大老・奉行に無断で諸大名との縁組を行っている
 ☆松平忠輝(家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の娘)
 ☆満天姫(松平康元の娘)と福島正之(福島正則の養子)
 ☆万姫(小笠原秀政の娘)と蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡男)。
 ☆かな(水野忠重の娘) と加藤清正
 ☆栄姫(保科正直の娘) と黒田長政
徳川家康の政治的影響力が強まる
 ☆家康、浅野長政・前田利長らが家康の暗殺を謀ったとして処罰する
 (長政は甲斐府中に蟄居、治長は下総、雄久は常陸にそれぞれ流罪)
 ☆家康は豊臣氏の蔵入地を諸大名に分け与えた
五大老の一人・上杉景勝の行動
 ☆家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出す
 ☆家康は景勝に対して問罪使として2名派遣
 ☆内容は景勝の軍事力増強を咎め、上洛し弁明すべきというものである
直江状が家康に送られる
 ☆直江状により、家康は景勝の征伐を決定する
 ☆会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられた
 ☆伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、BS11『尾上松也の謎解き歴史ミステリー』、WIKIPEDIAより













「もうひとつの関ヶ原」会津征伐(『尾上松也の謎解き歴史ミステリー』画面より画像引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国共産党大会(3)

2017年10月29日 | 国際情勢
「林彪事件」と「鄧小平3度の失脚」

林彪事件で「軍の有史以来、最大規模の粛正」
 ☆林彪は劉少奇の失脚後に毛の後継者に指名された
 ☆2年後林彪は、毛に権力奪取の意図を疑われて空軍機で逃亡
 ☆モンゴル人民共和国で着陸して失敗し、妻や息子とともに死亡した
空軍高官の林彪の息子が主導したとされた暗殺・クーデター計画が公表された
 ☆空軍幹部3人も逃亡を試みたが阻止され2人が拳銃で自殺した
 ☆林彪派の総参謀長以下4人の将官は、計画自体を知らなかった
 ☆4人は身柄を拘束され、党籍・公民権の剥奪処分を受けた
 ☆軍人800人以上が立件され数十万人が取り調べを受けた
 ☆林彪の娘も厳しい批判で自殺を図ったが、毛に嘆願書を送り処遇が改善された
中国を改革開放に導いた鄧小平、党内権力闘争で「3度失脚」
 ☆1度目の失脚(党中央の路線闘争に巻き込まれて失脚)
 (復活し、軍指導者として国民党との内戦で活躍した)
 ☆2度目の失脚(毛沢東に、走資派(資本主義の道を歩む実権派)」と批判され失脚)
 (毛に許され復活し副首相になる)
 ☆3度目の失脚(党内の保守派との対立が表面化し失脚)
 (毛死去と文化大革命を推進した四人組逮捕で、副首相として中央政界に復帰)
反習近平派の幹部の思い
 ☆最近失脚した薄煕来氏、令計画氏が、鄧小平のように復活してほしいと期待する声もある
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『産経新聞』


「林彪事件」と「鄧小平3度の失脚」(『産経新聞』記事より画像引用)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島津藩の領地は安堵された!

2017年10月29日 | 歴史
島津(義弘・義久)の領地は安堵(薩摩・大隅・日向諸県郡60万石)

関ヶ原の戦場で、島津義弘は敵中突破で戦場から脱出
 ☆島津義弘は、家康の指示で伏見城守備の分担だった
 ☆伏見城に入ろうとしたが、守将鳥居(三河武士)はこれを拒む
 ☆守将鳥居より、攻撃を仕掛けられ義弘は、やむ終えず西軍に加わった
 ☆義弘の軍は、戦場に取り残されその為、戦場からの脱出を計った
 ☆敵中を突破し激闘の末脱出、死中に活の作戦で、敵本隊を強行突破だった
領内防衛のため、兄・島津義久らは、領内の防衛体制の強化
 ☆家康は島津氏を武力で討伐する方針を固めていた
 ☆九州の全大名に命じ兵を総動員して肥後水俣に進軍
 ☆島津軍も兵を総動員し、薩摩・肥後国境において一触即発の雰囲気となる
島津側の外交手腕交渉
 ☆家康は義弘上洛の上で謝罪することを迫る
 ☆島津義久本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとして拒否
 ☆二年にわたり交渉は続けられたが、最終的に家康が折れる
 ☆薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定されました
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHK番組(英雄たちの選択)










島津藩の領地は安堵された!(NHK番組(英雄たちの選択)より画像引用)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする