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ご覧の皆様へ

みなさま、本当にありがとうございました。


惠窓院釋尼妙麗大姉
(俗名 丹羽多惠子)


このブログ「南窓によりて」の書き手である妻は、12月1日、永眠いたしました。
ブログを通して妻と交流を深めておられました皆様へ、ご報告が遅れましたこと、お詫びいたします。

葬儀は12月6日に執り行いました。
その時の喪主挨拶をここに掲載し、皆様へのご挨拶とさせていただきますことをお許し下さい。




喪主挨拶

本日は、妻多恵子の葬送に当たり、こんなにもたくさんの方々のご参列をいただき、さぞかし喜んでいることでございましょう。
お心のこもった数々の暖かいお言葉・お志を賜り、まことに有難うございます。

多恵子は、一昨年平成25年9月に血液のガンである骨髄異形成症候群との診断を受けました。6ヶ月後、恐れていた急性骨髄性白血病に移行し、昨年平成26年5月からは公立置賜総合病院で入退院を繰り返しながらの治療を受けてまいりましたが、この12月1日午後9時23分永眠いたしました。

多恵子は勘の鋭い人でしたから、診断を受けて直感的に、白血病=死を意識し、心のなかでの苦しい闘いを続ける中で、しかし表面的には明るく振舞いながら、人生の幕引きに取り組みました。

アルバムの整理、アクセサリーや身の回り品の使ってもらえる人をいちいち決めての整理をはじめとし、自らの遺影を準備したり、やがて独りになるであろう夫=私に対する、一人でやっていくための生活指導をことあるごとに続けておりました。
家族みんなでの温泉旅行など、やりたいことはまだまだ沢山ありましたが、10月17日に仙台の姉を訪ねたのが最後の遠出となりました。

10月19日再入院したときには病状はかなり進んでおり、悪いことに肺炎を併発し危篤寸前まで至りましたが、その時は驚異的な頑張りで乗り切り、もしかしたら快方に向かうのではないかとの期待をいだかせる瞬間もありました。しかし。波状的に襲ってくる苦痛を耐えしのぐ体力はもはや尽きていました。
12月1日夜、口元に、抜けるような崇高な微笑をたたえ、「ありがとう、いい人生でしたよ」といっているようなやさしい眼差しをして、静かに息を引き取っていきました。

妻多恵子は、昭和20年8月19日、宮城興業高橋家の次女として、南陽市に生まれ、宮内の小中学校、米沢東高校を経て、跡見学園女子短期大学を卒業、昭和44年結婚し1女1男に、そしてその後3人の孫に恵まれました。

結婚後、家計を助けるために選んだ道はセールスでした。ポーラ化粧品、第一生命、自営の靴の店「シューズハウスタフ米沢店」の経営、そしてその後は、私の靴販売の仕事に、アシスタントとして、持ち前の明るい華やかなキャラクターを発揮して貢献してくれました。

仕事と平行して、その他の生活分野での活動も活発でした。お友達との日常的なおしゃべり、旅行、マージャン教室や社交ダンス、そして60歳代で最も時間を割いた、ブログ「南窓によりて」による交流などでした。
ブログに掲載するための写真撮りが日課となりました。写真が決まらなければ文章が進まないというパターンでした。そのため写真には一時相当な力を入れ、結果として県写真展に入選したこともありました。
このブログは製本化して現在3巻までできております。全部で7巻ぐらいになる予定ですが、多恵子の思い出を辿るよすがとして貴重な記録となっています。

このブログ「南窓によりて」に掲載してある記事の中で、私たち夫婦にとって特筆すべき出来事がありました。それは、私の学友たちと夫婦連れで行った4度のヨーロッパ旅行と2度の東南アジア旅行でした。
多くの観光地を巡り、名所を訪れ、思う存分写真を撮り、旅行中に親しくなった参加者たちと食事を楽しみ、会話を弾ませ、夢のようなツアーを6度も経験させていただいたことは、どんな贅沢にも勝る経験でした。そのとき撮った動画に写る多恵子の映像を見れば、多恵子は今も生きていると感じることができるに違いありません。

このような人生の道筋の中で、本日おいでくださった皆様をはじめとして、多くの方々と交流させていただき、お世話になり、その中から多恵子の素敵な人生が紡ぎ出されました。このことについて、多恵子はいつも、有難いこと、幸せなことと口癖のように言って感謝しておりました。
皆様には、どんなに感謝してもし切れません。

多恵子の笑顔が皆様のお心の中で何時までも明るい光を放ち続けることを願いながら、御礼の言葉とさせていただきます。
皆様本当に有難うございました。


平成27年12月6日     
喪主  丹 羽 達 哉


   



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