(TOP画像は、氏も出品していたフランスにおける画展)
記:手塚さや香(毎日新聞記者)
2009年2月6日(金)毎日新聞夕刊 9面 文化・芸能欄より
コラムタイトル:創造の風景
サブタイトル:30分1本勝負 今日を塗り重ね浮き上がる時空
取り上げられた人:米島末次(銅版画家)
今日の先に、明日がある。
そのことの不確かさを。
ことさらに意識して生きている人が、どれほどいるだろうか。
少なくとも、僕はできていない。
夜。
ベッドに入るときに。
このまま、目が開かなかったらどうしよう?
そうした不安に駆られることは、幸か不幸か無い。
不安でないことに、”幸か不幸か”という言葉を繋げることはおかしい
だろうか。
不安でないのであれば、幸せに決まっているだろうか。
いや。
そうともいえまい。
死を意識しないということは。
日々を、刹那の中に生きていないということでもある。
でも。
そうして、漫然と日々を重ねていく僕の人生は。
僕が思っているほどに強固な基盤の上に成り立っているものではない。
今、こうしている最中にも。
何かの異変が体に生じて、僕は死んでしまうかもしれない。
もっと、身近な例で言えば。
昨年秋の交通事故で、あと少し何かが違っていれば。
今頃、ここに、というよりも、この世にいなかったということは、
十分に有り得る話なのである。
それほどまでの経験をしながらも、尚。
漫然と日々を送ってしまうことを。
不幸と言わずして、なんと呼ぼうか。
頭では、分かっているのだ。
にも、関わらず。
実際の時間軸の中に於いては。
一期一会。
この言葉を、どれほどの切実さを持って実感出来ているのか。
千利休の遠い弟子に(一応)当たるものとして。
お師匠様に顔向けできないではないか…。
今回取り上げられた、米島末次氏は。
正に、そうした刹那の時間軸に人生を置くことを実現している稀有な
人である。
氏の描く銅版モノタイプという版画のスタイルは。
一つの作品を仕上げるのに、僅か30分しかかからない。
もとより。
当初から、氏がこの作画スタイルを持っていた訳ではない。
元々は、氏は普通の油絵を描いていたが。
ある日、不意に訪れた知人の交通事故死が。
氏の心に劇症的変化をもたらした。
また明日と別れた人が、何の前触れもなく不帰の人となる。
その体験が、氏をして油絵の絵筆を取れなくしてしまった。
毎日、少しずつ色を重ねていく油絵のスタイル。
でも、明日の自分がそこに存在している保証は、何一つないのだ。
仮に存在していたとしても。
今の自分と同じ感性を持っているとは限らない。
そう考えたときに、今日の先に明日があるのか?という冒頭に掲げた
命題が、氏の心に大きな楔を打ち込んだ結果。
氏は、その日のうちに描き上げることが可能な銅版モノタイプに
行き着いたという次第である。
ただ。
僭越を承知で申し上げる。
氏の、もっとも素晴らしいところは。
その自らの体験から、刹那に生きるという導きを得た感性を有していたこと
では無いと思う。
では。
何を持って、氏のもっとも素晴らしい点と考えるのかは。
その感性を保持し続けて、もう20年間も同じテーマで作品を生み出し続けて
いることに尽きると思う。
「時の重なり」と銘打たれたその作品群は。
文字通り、一期一会の精神でもって、氏が生み出し続けたものである。
涓滴(けんてき)岩を穿つ、という言葉がある。
一滴の雫も、滴り落ち続けることで、岩に穴を穿つことも可能とする
言葉であるが。
その。
滴る一滴が、常に最後の一滴かもしれないという自負を持って滴り続ける
ことは、並大抵の精神力では出来はしない。
今日仕上げる、この作品が。
自分の最後の作品かも知れないのだと思いながら制作作業と対峙することは。
ギリギリの精神状態にまで、自らを追い込むことともなろう。
それを。
20年間続けてきた、その一点こそが。
何にもまして素晴らしい、氏の美点だと思うのだ。
(この稿、了)
記:手塚さや香(毎日新聞記者)
2009年2月6日(金)毎日新聞夕刊 9面 文化・芸能欄より
コラムタイトル:創造の風景
サブタイトル:30分1本勝負 今日を塗り重ね浮き上がる時空
取り上げられた人:米島末次(銅版画家)
今日の先に、明日がある。
そのことの不確かさを。
ことさらに意識して生きている人が、どれほどいるだろうか。
少なくとも、僕はできていない。
夜。
ベッドに入るときに。
このまま、目が開かなかったらどうしよう?
そうした不安に駆られることは、幸か不幸か無い。
不安でないことに、”幸か不幸か”という言葉を繋げることはおかしい
だろうか。
不安でないのであれば、幸せに決まっているだろうか。
いや。
そうともいえまい。
死を意識しないということは。
日々を、刹那の中に生きていないということでもある。
でも。
そうして、漫然と日々を重ねていく僕の人生は。
僕が思っているほどに強固な基盤の上に成り立っているものではない。
今、こうしている最中にも。
何かの異変が体に生じて、僕は死んでしまうかもしれない。
もっと、身近な例で言えば。
昨年秋の交通事故で、あと少し何かが違っていれば。
今頃、ここに、というよりも、この世にいなかったということは、
十分に有り得る話なのである。
それほどまでの経験をしながらも、尚。
漫然と日々を送ってしまうことを。
不幸と言わずして、なんと呼ぼうか。
頭では、分かっているのだ。
にも、関わらず。
実際の時間軸の中に於いては。
一期一会。
この言葉を、どれほどの切実さを持って実感出来ているのか。
千利休の遠い弟子に(一応)当たるものとして。
お師匠様に顔向けできないではないか…。
今回取り上げられた、米島末次氏は。
正に、そうした刹那の時間軸に人生を置くことを実現している稀有な
人である。
氏の描く銅版モノタイプという版画のスタイルは。
一つの作品を仕上げるのに、僅か30分しかかからない。
もとより。
当初から、氏がこの作画スタイルを持っていた訳ではない。
元々は、氏は普通の油絵を描いていたが。
ある日、不意に訪れた知人の交通事故死が。
氏の心に劇症的変化をもたらした。
また明日と別れた人が、何の前触れもなく不帰の人となる。
その体験が、氏をして油絵の絵筆を取れなくしてしまった。
毎日、少しずつ色を重ねていく油絵のスタイル。
でも、明日の自分がそこに存在している保証は、何一つないのだ。
仮に存在していたとしても。
今の自分と同じ感性を持っているとは限らない。
そう考えたときに、今日の先に明日があるのか?という冒頭に掲げた
命題が、氏の心に大きな楔を打ち込んだ結果。
氏は、その日のうちに描き上げることが可能な銅版モノタイプに
行き着いたという次第である。
ただ。
僭越を承知で申し上げる。
氏の、もっとも素晴らしいところは。
その自らの体験から、刹那に生きるという導きを得た感性を有していたこと
では無いと思う。
では。
何を持って、氏のもっとも素晴らしい点と考えるのかは。
その感性を保持し続けて、もう20年間も同じテーマで作品を生み出し続けて
いることに尽きると思う。
「時の重なり」と銘打たれたその作品群は。
文字通り、一期一会の精神でもって、氏が生み出し続けたものである。
涓滴(けんてき)岩を穿つ、という言葉がある。
一滴の雫も、滴り落ち続けることで、岩に穴を穿つことも可能とする
言葉であるが。
その。
滴る一滴が、常に最後の一滴かもしれないという自負を持って滴り続ける
ことは、並大抵の精神力では出来はしない。
今日仕上げる、この作品が。
自分の最後の作品かも知れないのだと思いながら制作作業と対峙することは。
ギリギリの精神状態にまで、自らを追い込むことともなろう。
それを。
20年間続けてきた、その一点こそが。
何にもまして素晴らしい、氏の美点だと思うのだ。
(この稿、了)
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