毎日新聞 2009年03月24日(火) 夕刊 4面 文化欄より
筆者:田川とも子(京都造形芸大講師)
6年間続いてきた田川とも子氏のコラムも、今回が最終回。
毎日新聞連載の中でも、お気に入りだったこのコラムが終わることは
寂寥感があるものの、まずは長きに渡る連載を無事に終えられた
作者に、お疲れ様を言いたい。
このコラムからは、様々な気付きを貰った。
中でも、ハンマースホイを教えていただいたことについては、
とても感謝している。
いつかデンマークに行きたいなどと、このコラムでハンマースホイ
に出会わなければ、絶対に思わなかっただろうから。
さて、この最後のコラム。
サブタイトルは、標記のように「結んで開く」。
この言葉に、作者がどのような思いを籠めたのか。
それは、もう少しおくとして。
まず示されることは、物事の終わり、ということに対する考え方。
画龍点晴という言葉がある。
例えば絵画でも、最後の一筆をどうするのか。
足らずでもなく、余剰でもなく。
ぎりぎりのところのラインを創造者は模索し続けるのだろうし、
またそれを極めたところにこそ、美しさが宿ることは間違いない。
この前振りを受けて、次に作者が示すことは、その最後の一筆を
極める、ということが、自発的にもたらされるのか、あるいは
他発的か、ということである。
これについて、作者はあるエピソードを紹介する。
それは、美術家のマルセル・デュシャンがなぜ創作活動を止めた
のか?という問いを受けたときの回答。
「脚を折るようにしてやめた」
誰も、脚を折ろうとして折る人はいない。
殆どは、不幸な事故の結果としてである。
つまりは、絵筆を折ったことも、積極的に止めようと思ってのこと
ではなく、これ以上書くことが出来なくなったためである。
そう、彼は主張するのである。
このエピソードを読んだとき、僕はとても怖いものを感じた。
気がつけば、自分の中に虚が広がっており、描きたいもの、描き続け
ようとする意欲、そのどちらもが無くなってしまっていた。
そのようなイメージを惹起したからであるが、作者は全く異なる
受け止め方をしたようで、まるで「明日のジョー」のラストのように、
真っ白に燃え尽きて終わったという感覚で捉えたようである。
そのことは、作者の「そんなふうに不意に襲った出来事のように、
必然的に終わるのもいいな」という表現にも現れている。
作者もまた、まだ現状に満足はしておらず、最後の一筆には自分は到達
していない、という自覚を持っている。
にも拘わらず、こうした終わり方を肯定できるということは、いつか
自分が満足できる点に到達できるイメージを描けているからかもしれない。
僕などは、まだまだ迷いと焦燥の渦中に身を置くものとして、こうした
終わり方は恐怖以外の何者でもないのだが…。
いつか、訪れる終焉の刻において。
人生というキャンバスに描いた絵の最後の一筆を、僕は描き切ることが
出来るのだろうか?
そうしたことを考えさせられた、最終回のコラムであった。
最後になったが、サブタイトルの「結んで開く」の意。
つらつらと考えていたのだが、このコラムを終了して、また新しい挑戦を
始めていくという、ストレートな意味と。
もう一つ。
様々な思いを束ねて凝縮していった先に結実するもの。それこそが費やした
営みの成果という花が開くということであり、一枚の絵が完成する刹那をも
表しているのでは、と思った次第である。
少し、穿ちすぎかな?
(この稿、了)
筆者:田川とも子(京都造形芸大講師)
6年間続いてきた田川とも子氏のコラムも、今回が最終回。
毎日新聞連載の中でも、お気に入りだったこのコラムが終わることは
寂寥感があるものの、まずは長きに渡る連載を無事に終えられた
作者に、お疲れ様を言いたい。
このコラムからは、様々な気付きを貰った。
中でも、ハンマースホイを教えていただいたことについては、
とても感謝している。
いつかデンマークに行きたいなどと、このコラムでハンマースホイ
に出会わなければ、絶対に思わなかっただろうから。
さて、この最後のコラム。
サブタイトルは、標記のように「結んで開く」。
この言葉に、作者がどのような思いを籠めたのか。
それは、もう少しおくとして。
まず示されることは、物事の終わり、ということに対する考え方。
画龍点晴という言葉がある。
例えば絵画でも、最後の一筆をどうするのか。
足らずでもなく、余剰でもなく。
ぎりぎりのところのラインを創造者は模索し続けるのだろうし、
またそれを極めたところにこそ、美しさが宿ることは間違いない。
この前振りを受けて、次に作者が示すことは、その最後の一筆を
極める、ということが、自発的にもたらされるのか、あるいは
他発的か、ということである。
これについて、作者はあるエピソードを紹介する。
それは、美術家のマルセル・デュシャンがなぜ創作活動を止めた
のか?という問いを受けたときの回答。
「脚を折るようにしてやめた」
誰も、脚を折ろうとして折る人はいない。
殆どは、不幸な事故の結果としてである。
つまりは、絵筆を折ったことも、積極的に止めようと思ってのこと
ではなく、これ以上書くことが出来なくなったためである。
そう、彼は主張するのである。
このエピソードを読んだとき、僕はとても怖いものを感じた。
気がつけば、自分の中に虚が広がっており、描きたいもの、描き続け
ようとする意欲、そのどちらもが無くなってしまっていた。
そのようなイメージを惹起したからであるが、作者は全く異なる
受け止め方をしたようで、まるで「明日のジョー」のラストのように、
真っ白に燃え尽きて終わったという感覚で捉えたようである。
そのことは、作者の「そんなふうに不意に襲った出来事のように、
必然的に終わるのもいいな」という表現にも現れている。
作者もまた、まだ現状に満足はしておらず、最後の一筆には自分は到達
していない、という自覚を持っている。
にも拘わらず、こうした終わり方を肯定できるということは、いつか
自分が満足できる点に到達できるイメージを描けているからかもしれない。
僕などは、まだまだ迷いと焦燥の渦中に身を置くものとして、こうした
終わり方は恐怖以外の何者でもないのだが…。
いつか、訪れる終焉の刻において。
人生というキャンバスに描いた絵の最後の一筆を、僕は描き切ることが
出来るのだろうか?
そうしたことを考えさせられた、最終回のコラムであった。
最後になったが、サブタイトルの「結んで開く」の意。
つらつらと考えていたのだが、このコラムを終了して、また新しい挑戦を
始めていくという、ストレートな意味と。
もう一つ。
様々な思いを束ねて凝縮していった先に結実するもの。それこそが費やした
営みの成果という花が開くということであり、一枚の絵が完成する刹那をも
表しているのでは、と思った次第である。
少し、穿ちすぎかな?
(この稿、了)
自分が書いて出してしまった文章は、もう読者さまの解釈です。ただ、毎週毎週迷いながら送信し続けた拙い文章を丁寧に読んでいただいていたことに、深く深く、感謝いたします。ありがとうございました。
本当に書いていて良かった。
そう思います。
大好きなコラムだっただけに、終了したことは惜しまれますが、また是非新たなキャンバスに筆を下ろされんことを!
そのときを、楽しみにしています。
此方の方こそ、ありがとうございました。