SIGNATURE 2007年12月号より 文:木谷節子(アートライター)
ちょうど今、東京都美術館で、ルーヴル美術館展 -フランス宮廷の美-が
開催されている(1月24日~4月6日)。
そこでの出品物を取り上げたコラムに、ふと目がとまった。
使われている写真は、大きく口を開かれたトランク。
その中には、銀食器類が所狭しと、だが整然と収納されている。
このトランクは、かのフランス王妃 マリー・アントワネットが愛用していた
旅行用の携帯食器入れだとか。
そこまで読んだ時、僕の中で、何かがドクンと脈を打った。
マリー・アントワネット。
この王妃の名前は、知らない人を探すのが難しいくらい有名である。
#もっとも、本家フランスでは、勿論個人によるのだろうが、誰?それ。という
方もいるらしい。
まあ日本でも、ほんの70年足らず昔にアメリカと戦争をやったことすら
知らない人もいるらしいから、驚くには値しないか。
日本では、あの「ベルサイユのばら」の大ヒットで、つと有名になった彼女だが、
漫画やアニメ、宝塚、小説、映画、更にはパチンコにまでなるに至っては、
メディアミックスなんぞという言葉も鼻白む勢いである。
ともあれ、そこまで多角的に広がった彼女と、彼女を取り巻くフランス革命前後の
状況について、どこか現実離れした印象を持ってしまっていたことは事実である。
いや、当然、実際にあった事件であり、人物である(誓って言うが、マリーが
だよ。オスカルじゃないよ!)ことは承知している。
が、上記のメディアでの華やかな印象が強すぎて、どこか実在の人物であると
いう認識を持てなかったのだ。
そのマリーという女性が、この旅行鞄を見た瞬間に、ふいに生身を持った存在と
して、僕のすぐ傍に感じられたような気がした。
それゆえの、動悸だったのだ。
彼女の人生を、今更ここで繰り返し解説する必要もあるまいが、さらりと
総括してみる。
かの高名なマリア・テレジアの末娘として生まれ、14歳で当時皇太子だった
後のルイ16世と政略結婚してフランスへ輿入れ。ブルボン王朝の最後の
残り火のような、豪奢な宮廷生活を送るが、国民生活は相次ぐ戦争や飢饉で
疲弊し、やがて国民は折からの自由主義思想の芽生えと呼応するかのように
立ち上がり、ついにフランス革命が起こる。
国民の怒りは、かつて国家の太陽と言われた国王や王妃が、国民の痛みや怒りを
分かち合おうとしなかったことにある。
ついに交わることの無かった両者の思いは、やがて国王一家の亡命失敗によって
決定的な亀裂を呼び、やがてルイ16世、マリーともどもギロチン台の露と
消える悲劇的な結末へ雪崩れ込んでいく。
悲劇はそれだけで留まらず、幼い子供たちも、あるものは10歳で幽閉先の
牢獄で、潰瘍まみれになって死を向かえ、またあるものは生き延びたものの、
その過酷な幼少時の体験から、例え身は自由になった後も、生涯微笑を忘れ、
氷の煉獄の中でその後の人生を過ごすこととなった。
また、マリーといえば、首飾り事件やパンが無ければお菓子を…発言、
スウェーデン貴族のフェルセン(どうも本当はセに濁点は入らないようである。
漫画の印象が強くて、ついフェルゼンと言いそうになるが)との道ならぬ恋、
瀟洒な生活と、どうも地に足が付かない印象が強い。
また、実際そうでもあったのだろう。
#マリーの名誉のために言うと、首飾り事件はマリーに非があったものではないし、
お菓子発言もマリーが言ったものではない。
ただ、そうしたことがさもありなんと民衆が思えるほどに、マリーは嫌われて
しまっていたのだろう。
そして、その生活が庶民の現実と乖離している度合いに比例して、国民の
彼女に対する怒りがいや増すことになったことも、また然り。
それらは、やはり彼女自身の気質によるものであろう。
確かに、ハプスブルグ家というヨーロッパきっての名家に生まれた彼女に
庶民生活を知れ、ということは酷なことなのかもしれない。
母マリア・テレジアは、幼い頃からマリーの躾けにはそれなりの
注意を払っていたようである。
だが、それを吸収しきれなかったこと、それにより、自らが国母となるべき存在で
あった民衆の本当の思いを汲みきれなかったことは、偏にマリー個人の責として
考えられるべきであろう。
一方、そうした面とは別に、マリーが優れて魅力を発揮していた面も、確かに
あったと思われる。
彼女が最後に書いた義妹のエリザベート内親王に宛てた遺書(この遺書も、牢番に
握り潰されて、妹の手元へは届かなかったという。また、ここでその身を案じら
れている妹も、やがて断頭台の露と消えたことを思うとき、より一層哀れを誘う)
を読むとき、そこに籠められた彼女の妹や夫、そして我が子たちへの思いの深さは
読む人の胸に迫る力を、静かに、だが強く持っているのだ。
かつて、フランスはパリの革命広場で、一人の女性が37歳の人生を終えた。
その昔、14歳でフランスへ輿入れした際、民衆が沿道に並び、手を振り、
祝福したルイ15世広場(当時。後に革命広場を経てコンコルド広場へ改名)へ
繋がる道。
そして、その24年後。やはり民衆に囲まれてはいるものの、口々に罵声を
浴びせられた同じ道。
彼女は、馬車すらあてがわれず、肥溜め運搬用の荷車に乗せられて、拘禁
されていたコンシェルジュリー牢獄から処刑場たるその広場へ運ばれて
いったという。
その凄絶な人生は、200年後の他人が容易に想像できるものではない。
が、しかし。
そうした慟哭とは無縁の頃の、その女性の生活の息吹が感じられるような、
この旅行鞄。
内側に備え付けられた鏡に、彼女はどのような表情を映していたのであろうか?
鞄も食器も鏡も、そんな身勝手な僕の問いには応えない。
ただひたすら沈黙を守り、かつての主人の喪に服し続けている。
ちょうど今、東京都美術館で、ルーヴル美術館展 -フランス宮廷の美-が
開催されている(1月24日~4月6日)。
そこでの出品物を取り上げたコラムに、ふと目がとまった。
使われている写真は、大きく口を開かれたトランク。
その中には、銀食器類が所狭しと、だが整然と収納されている。
このトランクは、かのフランス王妃 マリー・アントワネットが愛用していた
旅行用の携帯食器入れだとか。
そこまで読んだ時、僕の中で、何かがドクンと脈を打った。
マリー・アントワネット。
この王妃の名前は、知らない人を探すのが難しいくらい有名である。
#もっとも、本家フランスでは、勿論個人によるのだろうが、誰?それ。という
方もいるらしい。
まあ日本でも、ほんの70年足らず昔にアメリカと戦争をやったことすら
知らない人もいるらしいから、驚くには値しないか。
日本では、あの「ベルサイユのばら」の大ヒットで、つと有名になった彼女だが、
漫画やアニメ、宝塚、小説、映画、更にはパチンコにまでなるに至っては、
メディアミックスなんぞという言葉も鼻白む勢いである。
ともあれ、そこまで多角的に広がった彼女と、彼女を取り巻くフランス革命前後の
状況について、どこか現実離れした印象を持ってしまっていたことは事実である。
いや、当然、実際にあった事件であり、人物である(誓って言うが、マリーが
だよ。オスカルじゃないよ!)ことは承知している。
が、上記のメディアでの華やかな印象が強すぎて、どこか実在の人物であると
いう認識を持てなかったのだ。
そのマリーという女性が、この旅行鞄を見た瞬間に、ふいに生身を持った存在と
して、僕のすぐ傍に感じられたような気がした。
それゆえの、動悸だったのだ。
彼女の人生を、今更ここで繰り返し解説する必要もあるまいが、さらりと
総括してみる。
かの高名なマリア・テレジアの末娘として生まれ、14歳で当時皇太子だった
後のルイ16世と政略結婚してフランスへ輿入れ。ブルボン王朝の最後の
残り火のような、豪奢な宮廷生活を送るが、国民生活は相次ぐ戦争や飢饉で
疲弊し、やがて国民は折からの自由主義思想の芽生えと呼応するかのように
立ち上がり、ついにフランス革命が起こる。
国民の怒りは、かつて国家の太陽と言われた国王や王妃が、国民の痛みや怒りを
分かち合おうとしなかったことにある。
ついに交わることの無かった両者の思いは、やがて国王一家の亡命失敗によって
決定的な亀裂を呼び、やがてルイ16世、マリーともどもギロチン台の露と
消える悲劇的な結末へ雪崩れ込んでいく。
悲劇はそれだけで留まらず、幼い子供たちも、あるものは10歳で幽閉先の
牢獄で、潰瘍まみれになって死を向かえ、またあるものは生き延びたものの、
その過酷な幼少時の体験から、例え身は自由になった後も、生涯微笑を忘れ、
氷の煉獄の中でその後の人生を過ごすこととなった。
また、マリーといえば、首飾り事件やパンが無ければお菓子を…発言、
スウェーデン貴族のフェルセン(どうも本当はセに濁点は入らないようである。
漫画の印象が強くて、ついフェルゼンと言いそうになるが)との道ならぬ恋、
瀟洒な生活と、どうも地に足が付かない印象が強い。
また、実際そうでもあったのだろう。
#マリーの名誉のために言うと、首飾り事件はマリーに非があったものではないし、
お菓子発言もマリーが言ったものではない。
ただ、そうしたことがさもありなんと民衆が思えるほどに、マリーは嫌われて
しまっていたのだろう。
そして、その生活が庶民の現実と乖離している度合いに比例して、国民の
彼女に対する怒りがいや増すことになったことも、また然り。
それらは、やはり彼女自身の気質によるものであろう。
確かに、ハプスブルグ家というヨーロッパきっての名家に生まれた彼女に
庶民生活を知れ、ということは酷なことなのかもしれない。
母マリア・テレジアは、幼い頃からマリーの躾けにはそれなりの
注意を払っていたようである。
だが、それを吸収しきれなかったこと、それにより、自らが国母となるべき存在で
あった民衆の本当の思いを汲みきれなかったことは、偏にマリー個人の責として
考えられるべきであろう。
一方、そうした面とは別に、マリーが優れて魅力を発揮していた面も、確かに
あったと思われる。
彼女が最後に書いた義妹のエリザベート内親王に宛てた遺書(この遺書も、牢番に
握り潰されて、妹の手元へは届かなかったという。また、ここでその身を案じら
れている妹も、やがて断頭台の露と消えたことを思うとき、より一層哀れを誘う)
を読むとき、そこに籠められた彼女の妹や夫、そして我が子たちへの思いの深さは
読む人の胸に迫る力を、静かに、だが強く持っているのだ。
かつて、フランスはパリの革命広場で、一人の女性が37歳の人生を終えた。
その昔、14歳でフランスへ輿入れした際、民衆が沿道に並び、手を振り、
祝福したルイ15世広場(当時。後に革命広場を経てコンコルド広場へ改名)へ
繋がる道。
そして、その24年後。やはり民衆に囲まれてはいるものの、口々に罵声を
浴びせられた同じ道。
彼女は、馬車すらあてがわれず、肥溜め運搬用の荷車に乗せられて、拘禁
されていたコンシェルジュリー牢獄から処刑場たるその広場へ運ばれて
いったという。
その凄絶な人生は、200年後の他人が容易に想像できるものではない。
が、しかし。
そうした慟哭とは無縁の頃の、その女性の生活の息吹が感じられるような、
この旅行鞄。
内側に備え付けられた鏡に、彼女はどのような表情を映していたのであろうか?
鞄も食器も鏡も、そんな身勝手な僕の問いには応えない。
ただひたすら沈黙を守り、かつての主人の喪に服し続けている。