活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

しあわせのトンボ 近藤勝重

2007-11-18 01:34:35 | 活字の海(新聞記事編)
毎日新聞 11月17日(土)夕刊 4面 セカンドステージ より

副題 : 「死」は不幸か


先日、年賀葉書が発売された。
それとともに、もうそろそろ喪中葉書がぽつぽつと届く時期となってきた。

そんな折、貰えなかった喪中の葉書を、ふと思い出した。


もう15年以上前、初めて「一万人の第九」に参加したときに、
僕は一人の老人と知り合った。
とても元気のいい、気さくな方で、初心者(今でもだが…)の僕とも
打ち解けて話をしてくださり、毎回の練習が楽しみだった。

本番では、こっそりと(主催者さん、ごめんなさい)第九を録音し、
後からそのテープをダビングしてくれた。
いつも僕は彼の横にいたので、声だけは大きい僕の声もよく入っていて、

「音程が外れているところがよく分かるよ。もっと練習しなきゃね。」

と優しい口調でからかわれたことを思い出す。

僕が転勤で東京に行き、同じレッスンに参加できなくなってからも
彼は毎年テープを送ってくれた。

僕もお返しに、たまに旅行に行った折に、美味しい地酒を見つけてお送り
したりしていた。

特に、レッスン以外で会うことも無く、特に東京に僕が行ってからは
会うこともできなくなっていた関係だったが、確かに彼と僕との間には
繋がりは存在していた。


ある年、いつも送られてくる年末に、その年の第九のテープがこなかった。
どうしたのかといぶかりながらも出した年賀状の返信は彼の奥さんからで、
彼が癌で昨夏に逝ったことを僕に伝えてくれた。

奥さんとは面識も無く、どういう繋がりかも分からない東京の住人にまで
喪中案内も届かなかったのは、想像に難くない。


彼がその死に際してどのような思いで逝ったのは僕には分からない。
ただ、願わくば、いつも彼が向けてくれた穏やかな笑顔そのままに、
今わの時を迎えていてくれたら、と切に願う。


そうした話を、ふと思い出させるコラムだった。 


人間というものは、致死率100%である、と。
であらば、死は人にとって必然である。
そして、一般的に死を不幸というなら、人は不幸に向かって生きるものなのか?

という問いで氏のコラムは始まる。


かの仙崖和尚ですら、死に即して「死にともない、死にともない」と
言った。
高僧ですら死を克服できないのであれば、我々凡人が死をあれこれ
忖度できるものではない。

仙崖和尚の言葉の解釈はともかくとして、
人間、明日をも知れぬ命であれば、死が幸か不幸かも分からないのだから、
やきもきしても始まらないとする、氏の主張には素直に同意する。

斜に構えて生きるよりも、
じたばたしながらでもいいので、一歩でも二歩でも前に進んでいきたい。

そうした先にある死は、
もし何も為し得なかった人生だったとしても、
自分の力で前に進もうとしたことを知っている満足感だけは得られると思うから。

勿論、努力賞で終わったんじゃあ物足りない。

昔読んだ漫画「エースをねらえ!」の中の台詞を思い出す。

絶望的な状況に追い込まれながらも、尚懸命に戦う主人公に対して
周りで見ている人がこう呟く。

「ここまで頑張ったんだから、もういいじゃないか。」

それに対して、別の人が

「いや。ここまで頑張ったのだから、勝たせてあげたい。」

と言う。


さて、僕は、僕の人生の最後に、どのような思いで旅立てるのか?
辿り着くべき先ははるけく遠く、道は峻烈である。
だが、どんなに時間と手間が掛かろうとも、
そこに行く方法を僕は知っているのだ。

だから、諦めはしたくない、と思う。


付記
仙崖和尚は、その生涯において、多くの逸話とともに多数の禅画を残されている。
現在、和尚の作品は、東京丸の内にある出光美術館にて多く展示されている。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« からくりサーカス(2) 藤... | トップ | 白浜の海(円月島) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

活字の海(新聞記事編)」カテゴリの最新記事