壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

赤光

2008年02月25日 20時38分12秒 | Weblog
 きょう2月25日は、歌人・斉藤茂吉の忌日である。
 茂吉は、明治十五(1882)年、山形県に生まれ、十四歳で上京、一高を経て東大医科へ進み、精神病学を専攻した。
 一高在学中、正岡子規の遺稿歌集「竹の里歌」を読んで深い感動を受けた。以来茂吉は、子規の唱えた「写生」の説を、その強烈な個性によって深化拡充して受け継ぎ、子規から発する近代の写実的短歌の代表者としての道を歩んでゆくことになる。
 大学卒業後、斉藤家の婿養子として精神科医の本務のかたわら、伊藤左千夫の門に入り、雑誌「アララギ」の編集に従い、同派の長塚節・島木赤彦・古泉千樫らと短歌・歌論の制作に励んだ。
 また、森鷗外の観潮楼歌会に出席し、北原白秋ら「明星」「スバル」系の新進歌人と交流した。
 
 そうして赤彦とともに大正期「アララギ」の中心存在として、子規の写生論をおしすすめて、《実相観入》の説をたて、写生即象徴の独自の詠風を示した。
 
 茂吉は、昭和二十八(1953)年二月二十五日、七十一歳で死去した。茂吉の忌日を“赤光忌”とも呼ぶのは、茂吉の第一歌集『赤光』にちなんでである。
 『赤光』は、大正二年に刊行され、明治三十八年から大正二年までの作品を収める。茂吉の激しい生の意欲が、日本の伝統的抒情形式の中に、近代西欧の精神と感覚とを主体的に選び取っている。近代短歌の最高の達成を遂げ、当時の知的青年たちに多大の影響を与えた。

 タイトルの赤光(しゃっこう)は、母の野辺の送りの夜空に、茂吉が見た光なのである。「赤光のなかに浮びて棺ひとつ行き遥けかり野は涯ならん」とある。
 茂吉は、近代短歌のなかで、私の最も好きな歌人である。『赤光』のなかでも「死にたまふ母」の連作59首が特に感動的だ。
 4部構成、59首のなかから各部2首ずつ、絶唱を記す。

   ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なし
   みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
   死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
   のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
   星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えにけるかも
   灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり
   笹原をただかき分けて行き行けど母を尋ねんわれならなくに
   山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ


      鏡台の前に母ゐる茂吉の忌     季 己