壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

夕日の嵯峨

2011年07月20日 00時14分44秒 | Weblog
        若竹や夕日の嵯峨となりにけり     蕪 村

 京都・嵯峨は、おだやかな風光と歴史上の古蹟に富んでいる。ことに俳人にとっては、芭蕉の『嵯峨日記』などによって忘れられない地となっている。蕪村もしばしばこの地を散策したものであろう。
 この句は、「若竹や嵯峨は夕日となりにけり」というように、ただ一日だけ嵯峨野を歩んで、その太陽が夕刻に近づいたことを表しているのでは決してない。
 嵯峨野には藪が多く、『嵯峨日記』にも、
        嵐山藪のしげりや風の筋     芭 蕉 
        ほととぎす大竹藪を漏る月夜     芭 蕉
 などの名吟がある。
 小道の両側の竹垣一つをへだてて深い藪であり、頭上をおおった竹の葉を越す日光は、真昼でも月光のように澄みきっている。
 そういった藪へ、夕日が深々と射し込むと、若竹は、その独特の美を十分に発揮するのである。
 若竹――今年竹――は、幹の色もいわゆる「ろうかん色」であって、古竹の鈍い黄色を帯びたのとは全く異なっている。また、節ごとに胡粉のように真っ白な筋を巻いていて鮮やかである。
 梢も古竹のように重々しく茂らないで、「藪穂」といわれるように鋭く細く突き立っていて、それが風になびき日に輝く。
 蕪村は、「斜陽の美」を強く意識していたように思われる。

 季語は「若竹」で夏。

    「到る処の藪に若竹が生い伸びて、この頃では、嵯峨という地は、夕日の
     刻こそ最も趣深い地だと言い得るようになった」


      積上げし書の冷えびえと昼寝覚     季 己