壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (75)無心所著②

2011年04月28日 20時10分44秒 | Weblog
 「俳句は意味を述べるものではない。自然と我との関わりをうたいあげるものである」を信ずる私としては、「無心所著、大いに結構」というところでしょうか。
 けれども、大言壮語や美辞麗句は困りものです。また、本人はしゃれた言い方だとお思いなのでしょうが、そういう表現に出会うと、虫酸が走ります。

 すべての芸術に共通して大切なことは、感動だと思います。感動が失われた作品はもはや芸術ではありません。
 俳句も同じです。自分が感動したことを、いかに人々に伝えることが出来るか否かに、作品の良否はかかっていると思います。

 「芸術とは、見えないものを眼に見えるようにすること」とは、スイス生まれのドイツ人画家パウル・クレーの信念です。この「芸術」を「俳句」に置き換え、「俳句とは、見えないものを眼に見えるように表現すること」と、私は思っています。
 また、「最高の技術は、心からしか来ない」とも思っています。個人的な心の深みがいろいろと絡み合って、技術は個人的な領域の中で完成します。

 以下は、某句会の主宰選ボツの作品の一部です。なぜボツになったのか考えてみましょう。全作品に共通していえることは、感動が感じられない、ということです。

    A 快哉を叫びし良夜の月動く
 「快哉を叫びし」と力んでみても、それは良夜の報告に過ぎず、感動の表現にはほど遠いのです。どこがどう愉快なのか、自分が受けた感動を、眼に見えるように表現するのが俳句なのです。
        
        六月の女すわれる荒筵     波 郷
 この句に対し、山本健吉は次のように書いています。
 「……作者のイメージの焦点ははっきりしてくる。大胆に女と言っただけで、何の説明も加えていない。だが、それだけで、殺風景な茅屋にある匂いを発散させるのである。作者の眼は〈空缶に活けたオモダカ〉を目ざとく捕らえたのであるが、それも思い切って捨ててしまう。女そのものズバリでよかった。……」(『現代俳句』角川文庫)
 波郷は、「女すわれる荒筵」だけで、「六月」をみごとに活写しています。
 感動というものが、あらかじめあるのではありません。一人ひとりが自分の感性で、自分の個性でとらえるものなのです。

    B 視線浴ぶ我に罪なし草虱
 「知らずに、草虱(くさじらみ)をつけて歩いていたら、皆から視線を浴びたが、それは自分の責任ではない」と言いたいのでしょう。所詮、説明・報告の域を出ません。

        ふるさとのつきて離れぬ草じらみ     風 生
        兵の日以後駈けることなし草じらみ    波 郷
 いずれもそれぞれの感性で「草じらみ」をとらえています。「感動は自分自身でとらえるもの」ということが、よくわかると思います。

    C 越して行く友を招いてとろろ飯
 「越して行く友を招いてとろろ飯(を食べた)」という散文の一部、つまり、すべてを言い切ってしまった単なる報告です。とろろ飯に対する作者の思いがまったく感じられないのが、ボツの大きな理由だと思います。


      黄水仙みちのくに幸ただよへよ     季 己