壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (77)付句の呼吸①

2011年05月02日 20時41分11秒 | Weblog
        ――和歌では、篇・序・題・曲・流という五つのことを、表現上の
         形式として、上の句と下の句をつなぎ合わせる要素としています。
         これは、連歌の世界には、あってはならないことなのでしょうか。

        ――先賢が話しておった。このことは、連歌を作る上で最も重要な
         ことである。この配慮が十分でなければ、どんな素晴らしい秀逸
         な句を作り得る作者でも、代々の勅撰集の趣意・味わい、また他
         人の詠んだ歌・連歌の真意や意図は理解できないだろう。
          だから、『古今集』仮名序などにも、主として論じている。
         定家卿の『明月記』などにも、懇切丁寧に説明されているという。

          自分の詠句を巧みに作るより、他人様の句を理解し鑑賞するこ
         とが、はるかに難しいことである。技巧を尽くして秀逸を作る作者
         は多いが、真に人格的修行のできた人は少ない。
          だから、自分が他人に理解されないのを悩み苦しむより、自分
         が他人を理解していないことを心配せよ、と『論語』にも言って
         いる。

          篇・序・題・曲・流というのは、五つの歌の作り方をたとえたもの
         である。
          篇とは、人を訪ねるのに、まだその軒先に佇んでいる状態である。
          序とは、取次の者に、主人の在宅の有無や取次を尋ねている頃合
         いのことである。
          題とは、訪ねてきた理由を述べている段階である。
          曲とは、用向きの主旨をはっきり説明することである。
          流とは、いとまごいをして、その家を出るさまである。

          この五つの様式を、連歌の上の句と下の句を一緒に詠み合わせ
         て、意味や表現が適当に通じ合い、情感が自然と表れるように、
         古来の名歌の各句の継ぎ様、修辞をしっかり見分けて、連歌の上
         の句、下の句を連結すべきである。
          この用心のない人の句は、いつもいつも、頭にする冠を足に履い
         たり、沓を頭に載せたりして、一句の構成や配列を誤ることが多い
         という。
          この心構えのない作者は、技巧的な趣向仕立ての句でさえあれば、
         修辞がばらばらで、ぎくしゃくして文飾の過ぎた句をも正当である
         と考えている。
          おおらかに言い流したり、意味や味わいを言い残しなどした点を、
         軽々しいとでも思っているのかも知れない。


      コカリナを吹けば五月の風きたる     季 己