壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

宵涼み

2010年07月15日 20時37分16秒 | Weblog
        皿鉢もほのかに闇の宵涼み     芭 蕉

 挨拶の心のこもった作として味わいたい。
 もてなしの席で、灯もつけずに宵涼みをしているさまで、すべてが闇に沈んでゆく中に、皿鉢だけがわずかに白を保って見え、そこに宵涼みの微妙な季節の感じがつかまれているのである。
 この句の眼目は、「皿鉢もほのかに」にあり、そのほとりに二、三の黙りがちな人が、ほどよく坐している感じである。

 季語は「宵涼み」で夏。「夕涼み」に対して、暮れきってからの納涼をいう。当時の歳時記類には見当たらない季語である。「宵闇」は、十五日を過ぎた月が上る前の闇をいう季語なので、この句にも遅い月の出を待つ心があるのかも知れない。

    「もてなしの皿鉢が、宵闇の中に溶け込みながらも、ほのかに白く浮いて見える。
     そのほとりで、宵涼みを心ゆくまで楽しんでいることだ」


 ――七月も半ばだというのに、玄関に掛けてある絵は、花岡哲象先生の「六月の屈斜路湖」のまま。そう、六月に掛け替えたまま、横着を決め込んでいたのだ。6月生まれの変人にとっては、非常に愛着のある作品なので、なかなか替えられないでいる。だが、入谷の朝顔市も終わったことなので、明日、花岡先生の「朝顔」に掛け替えることにしよう。

 その花岡先生から今日、お電話を頂いた。
 先日あるパーティーの席上で、絵の見方についてボソッと言ったことが、とても素晴らしく、絵描きとしてうれしかった、とのこと。こちらは恐縮しっぱなし。ちなみに、ボソッと言ったことは次の通り。
 「自分は名前で作品を購入したことはない。感動しなければ決して買わない。その感動の仕方は、作品の前に立ったとき、①身体全体があたたかいものにつつまれる、②足下からあたたかくなる、③頭からあたたかくなる、の3通りある。①の作品に出逢ったら無理をしてでも買う。②③の場合も、たいていは遣り繰りして買う」
 つまり、現在手元にある作品は、すべて感動して購入したもので、義理やしがらみで購入したものはゼロということ。花岡先生の作品は、みな①であることは言うまでもない。   

      絵の湖(うみ)に吸ひ込まれゆく夕涼み     季 己