壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

2009年04月11日 23時00分26秒 | Weblog
        白蝶々飛び去り何か失ひし     綾 子

 春の蝶は、まず菜の花に戯れる紋白蝶にはじまって、紋黄蝶が現われ、さらに夏に近く揚羽蝶と、だんだん季節をおって種類を増し、日本で見られるものだけでも、五百種類以上と聞いたことがある。

        初蝶を見し束の間のかなしさよ     たかし

 蝶は、厳しい真冬を除けば、一年中、見ることの出来る昆虫である。だが、その姿の美しいのは、春になって花から花へ飛び交う姿であろう。
 春もっとも早く目につくのを初蝶というが、これは紋白蝶のことをいう。
 「ちょうちょう、ちょうちょう、菜の葉にとまれ」と歌にあるように、紋白蝶や紋黄蝶は、菜の花やキャベツなどに多く集まる。

        蝶がくる阿修羅合掌の他の掌に     多佳子

 蝶は、自然界で、最も美しいものの一つであろう。
 自然がこれほどに美しい色彩を惜し気もなく使うのは、植物の世界での花とこの蝶の他にはない。
 か弱く、もろく、美しく飾ることが女性の特徴であったとするならば、蝶と花とは、自然界での最も女性的な存在であろう。
 古い諺に、かわいい女の子をを大切にすることを、「蝶よ花よともてはやす」という言葉があるが、この三つのものの共通点を実にうまく言い表している。

 最近の人間界では、男女の区別がいささか曖昧になってきたが、自然界の蝶と花とは、いぜんとして切っても切れない縁が深く、動くものと動かぬものと、互いにその美しさを対照的に引き立てあっているようである。
 そんな蝶と花より美しい、いや崇高な仏像に今日、再会してきた。いま東京国立博物館平成館で開かれている「興福寺創建1300年記念 国宝 阿修羅展」でだ。
 目指すは、阿修羅と須菩提のみ。思いにたがわず、突然、足が床に引っ付いて動かなくなり、ふるえるほどの感動を覚えた。

        世の中は蝶々とまれかくもあれ     宗 因

 人間の一生が、仮の宿りの夢にひとしいものならば、荘子の夢でなくても、同じく花から花へ舞い移る蝶々のように、何の気がかりもない、美しく楽しい人生を送ってみたいものである。
 いやいや、変人は、興福寺で阿修羅と須菩提のお守りをするほうが、ずっと楽しく幸福であると思うが……。

        君や蝶我や荘子が夢心     芭 蕉

 これも、宗因の句と同様、『荘子』逍遥遊篇の「昔、荘周、夢に胡蝶と為れり」とある文章から出たものである。
 江戸時代は濁点をつけないのが普通で、「荘子か」と読むか、「荘子が」と読むかで意味が分かれるが、「が」とすべきで、「君や」「我や」が疑う意であるので「か」は疑問ととるべきではない。
 また、「荘子が夢心」とつづくのではなく、「君や蝶我や荘子」という、その「夢心」というように上十二を包む「夢心」ととりたい。

       「君は『荘子の夢に胡蝶となる』というあの蝶で、自分はその荘子なのであろうか。
        そういう夢心地の中では、相離れていても心はこのように相通ずることよ」


      凝らしゐる阿修羅のまなこ遠ざくら     季 己