人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

アルテミジア・ジェンティレスキ

2008-09-04 06:24:59 | 美術
■1593年にローマに生まれたアルテミジア・ジェンティレスキは、カラヴアッジョ派の画家オラーツィオの一人娘でした。オラーツィオは早くからアルテミジアの画才を認め、幼少から彼女を画家として指導しました。アルテミジアの1610年作とされる《スザンナと老人たち》では、すでに高度な技量をみとめることができ、また独自の表現にも達しています。この作品の翌年から12年にかけて、オラーツィオは友人のアゴスティーノ・タッシとボルゲーゼ宮殿の装飾を行うことになり、やがてアルテミジアはアゴスティーノに出会い、惹かれていきます。フィレンツェの画家アゴスティーノは、アルテミジアにとって、職業画家としての父にはないものを持っていて、彼女は父の許しを得て彼から絵画の新技術を学ぶこととなります。しかしオラーツィオは、娘アルテミジアとアゴスティーノの関係を知り、アゴスティーノを姦通罪で訴えます。

――アルテミジアは、裁判の過程でアゴスティーノがすでに既婚者であるのに嘘をつき、自分に結婚の約束をしていたことを知ります。また彼女の性的体験や処女性が検証されることとなり、屈辱的な経過を経て、逆に彼女の欲望が浮彫になる結果となってしまいます。さらにアゴスティーノの親戚は、姦通罪を免れるために、彼女の名誉を汚そうとさえします。

――裁判が終結すると、アルテミジアはフィレンツェの画家ピエトロ・アントニオ・スティアッテージと結婚します。フィレンツェで彼女はミケランジェロの子孫ブオナッローティ家の庇護を受け、さらにはトスカーナ大公コジモ2世の後援もあり、アカデミー会員として迎えられます。――この時代に女流画家が自作にサインを残すこと自体、きわめて例外的なことですが、アルテミジアは女性画家として華々しく活躍しました。

1630年から数年ナポリに滞在して、さらなるカラヴアッジョ主義を追究し、38年からはイギリスのチャールズ1世の宮廷画家となり、その後42年にナポリに戻って、十年後に同地で59歳で他界しました。

アルテミジアはまた、生涯にわたって、貞節を奪った男への抗議のためにナイフで自殺するルクレティアの主題を描きつづけています。古代ローマのこの説話は、貞節を奪う男の立場から性的なサディズムをもって描かれることが多いものの、アルテミジアはこの主題を強姦されるルクレティアの側から告発的に描いています。


〈アルテミジア・ジェンティレスキ〉_1

〈アルテミジア・ジェンティレスキ〉_2

〈アルテミジア・ジェンティレスキ〉_3

〈アルテミジア・ジェンティレスキ〉_4

〈アルテミジア・ジェンティレスキ〉_5


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