狭い場所に多くの人数がいるとただでさえストレスがたまるものである
ましてや震災という極限状況で一週間が過ぎた避難所
お互いに我慢しているもののトラブルも増えてきた
犬を連れて避難してきた人
家族同然の室内犬とはいえ周りから迷惑がられた
動物はともかく
ちょっとおかしな人はどこにでもいるもので
ナタを持ち出されて流血騒ぎになったこともあった
とはいえ
基本的には気を使い合い、譲り合う
そんな避難所であったと思う
ただ
体調を崩している人は増えてきつつあった
狭い場所に多くの人数がいるとただでさえストレスがたまるものである
ましてや震災という極限状況で一週間が過ぎた避難所
お互いに我慢しているもののトラブルも増えてきた
犬を連れて避難してきた人
家族同然の室内犬とはいえ周りから迷惑がられた
動物はともかく
ちょっとおかしな人はどこにでもいるもので
ナタを持ち出されて流血騒ぎになったこともあった
とはいえ
基本的には気を使い合い、譲り合う
そんな避難所であったと思う
ただ
体調を崩している人は増えてきつつあった
震災の発生が冬だったことは
衣類の面や燃料の面で健康面でも
困ったことばかりだったが
ありがたいこともあったという話
毎日泊り込みで働いていた先生たちであるが
もちろん学校にバスルームはない
あったとしても水道は止まっている
つまり一週間風呂に入っていないのだ
着ている服も朝から夜まで同じ物
これが夏場だったら我慢できない臭いだっただろうが
気にならない程度だったのは冬だったから
それでも流石に女性たちからは不満が出ていた
情報によると隣の集落の公衆浴場が営業をしているという
18日の夜職員乗り合わせて出かけた
営業時間過ぎていたところを拝み倒して入れてもらう
かなり熱い湯だったが体を洗い人間らしさを取り戻す
きれいさっぱりした所で
身につけるのは同じ服だったりするのだが・・・
15日16日は学校は臨時休業ということにしてあった
17日は登校日とし、
それまでに今後の方向性を決めることにしていた
職員は24時間休む間もなく先生で居続けることに
疲れ果てていた
限界が近づいていた
避難所には支援物資が届き始めていたが
悲しみとあきらめの空気が蔓延している
校長は決断する
「学校を再開しよう」
17日の登校日
登校したのは120人中の70人だけだった
50人は遠くの親戚を頼って町を離れていたのだ
「今日から授業を始めるよ」
それとともに
避難所に自治組織を立ち上げた
総務
食事
美化
保健
管理
学校
朝7時と夜7時に責任者の会議を持つ
夜にろうそくの灯で行う会議は
一日の疲れで眠くてしょうがなかった
授業が始まったこと、卒業式を23日に行うことは
全児童の家庭に伝えたかったのだが
電話がない
電気がないから印刷もできない
放送もできない
模造紙に書いて張り出し
あとは口コミに頼るしかなかった
登校と下校があるだけで
子供達に生活リズムが生まれ
前向きな気持ちが出てきた
教職員もやりがいが出てきた
学校の再開は早かったが英断であったと思う
辛いことからは意識を逸らせる時間が必要なのだ
この日は子供達が続々と引き取られていった
家の流されてしまい
親戚を頼って町を離れる家族もあった
校舎で寝泊まりを続けている児童は41名
今日は私たち町内在住者が自宅を見てきて良い日
初めて町内を車で走ることになった
悪夢の中の風景
道路はかろうじて2車線あけてあり瓦礫が両脇に積み重ねられている
自宅へ続く国道は橋の近くで所で落ちてしまい通行止め
かなり遠回りをして町役場についた
そこから私の家までの道は通れないということで
瓦礫を踏み分けながら徒歩で家に向かう
変わり果てた町に言葉を失う
たどり着いた我が家には土台しかなかった
道路(だった所)を挟んで向かい側に
二階の半分を見つけた
一階部分は粉々になったのか・・・
海に引きずり込まれたのか・・・
気を取り直して父母の消息を辿ることにする
情報のあった「T中学校避難所」で探すと
姿は見えず
張り紙に「K叔父のところへ行く」と書置きがあった
隣のM市の親戚である
道中「ケータイが通じる」という場所で
しばらく電話をかけまくる
妹には繋がり安心させることができた
弟にはPHSにメールを入れておく
叔父宅にはどこで追い越したのか先についてしまい
待っていると知人の車に乗せられて父母がやってきた
再会できたことに涙腺がゆるむ
今後しばらく避難所で働くことになることを伝えて
Y町へ戻ることにする
帰り道も変わり果てた風景に目をふさぎたくなる
電柱の上からぶら下がっている漁具
逆さまになった自動車
故郷は記憶の中にしか残っていないことを思い知らされる
日曜日になったが先生と子供達はまだそばにいた
主要な道路は繋がったという話を聞く
それとともにたくさんの情報が入ってきた
H橋が落ちた
O橋も壊れた
駅も役場もY中学校も焼け落ちた
町の中央部は全滅だ
その多くはデマであったのだが
それでも事態は深刻だった
家の無事だった保護者が子どもの引き取りを求めてきたので
親が直接来た時に限って引き渡すこととする
そのチェックに追われる一日
120名だった児童の三分の一が家に帰り
80名が学校に残った
道路が繋がったかと思ったらテレビ局の取材も入る
先生たちも自分の家族が心配だったが
子供達から離れるわけにもいかないので
順番に自宅を見てくることを許された
この日はM市方面の4人が交代で出発
W先生は家に行ったが家族には会えなかったそうだ
無事だという消息は得てきたという
途中でケータイの繋がる場所を発見したということが
久々に明るい情報
私たちは明日、自宅を見に行ける
夜
保護者の一人から話しかけられる
「先生、先生のご両親をT中学校で見た人がいるよ
無事でよかったね」
震災後初めて
涙がこぼれた
次の朝が来ても
町の中心部の火事はおさまらず黒い煙が上がっていた
学校職員で集まり話し合いを持つ
水は山からの湧き水で何とか凌げそうだ
ろうそく、トイレットペーパーはしばらく大丈夫
灯油は40Lしかない
米は近所の人たちが持ってきてくれた
土曜日だが児童はまだ家庭に帰さず
先生たちがビッタリとついていることを確認
大人たちが救助やかたずけに集中できるようにだ
遺体は地区の体育館に安置され
本校に運ばれてくることはなかったが
怪我をした人が運ばれてきた
救急車が来ているらしいのだが
国道も瓦礫でふさがっているということで
学校から300mほどの山道を担架を運んだ
学校の坂を下りたところまで瓦礫が押し寄せて
道は無くなっていた
国道の真ん中に誰かの家が斜めに留まっている
時折余震のあるたびに緊張が奔る
この日は夕飯だけだったが
おにぎりに味噌汁が付いた
暖かい物がありがたかった
父母の安否は気になったが
津波に流されていたら生きてはいないだろうし
逃げていたらどこかで生きているだろう
探しに行ったとてできることはないといいきかせて
子供達と肩寄せあって夜を迎える
他の職員も妻子のことは口にせず
できることを黙々と行うだけだった
あの日 私は卒業式練習の準備のために体育館にいた
低学年の子供達は帰りの会の最中、それが始まった
最初は「ちょっと強い地震だな」位にしか思わなかったが
揺れはおさまらずだんだん強くなる
私は各教室を見回りに行った
「大丈夫ですか」
子ども達はみな机に潜って不安そうな顔をしている
6年生の教室までまわっても揺れは続いていた
校庭に避難
副校長の指示を伝えて歩く
子供達は上着を着ると、揺れの続く中、校庭へと避難した
少しずつ地域の大人たちも高台にある本校に集まりはじめる
余震は続く
異常な地震であることは皆もう理解していた
30分も寒さに耐えていただろうか
校庭の端から海を見ていた大人たちから悲鳴が聞こえた
そちらに目をやると白い波が湾を近寄ってくるのが見えた
津波であることはわかった
見に行こうかという気持ちもあったが
子供から離れるわけにもいかない
海と逆の方を向かせて
座らせていると
変な景色が眼に入った
眼下国道が通っている辺りを屋根が動いていく
信じられない風景だった
身の危険を感じて
避難場所を校庭より高い前庭に変更する
場合によってはさらに高い裏山に逃げることも考えた
余震は続く
教室に上着を忘れたという子がいて恐る恐る校舎に入ったりもした
親が迎えに来た子もいたが返さないという判断
やがて日が落ち始め気温が下がり始めた
校庭に運動会用のテントを張り、周りをブルーシートで囲って風除けとした
この時点で電気・水道・テレビ・電話は通じない
大変な事態である事がわかった
子供達を帰すことはできない
ブルーシートで夜は明かせない
校舎に入る決断をする
4つの教室を開放し、そのうち2つの部屋に児童が入った
毛布や米などを近所の人が持ってきた
かまどの準備、ろうそくの準備、水の確保
やることは幾らでもあった
辺りはすっかり暗くなる
どこもかしこも停電なので経験したことのない闇夜
ろうそくの灯だけが頼りだった
かまどで火を焚き、鍋で炊いたご飯のおにぎり
水っぽいおにぎりを一人1個
これが夕食だった
子供達と一緒に、二人で一枚の毛布で寝る努力をする
停電の筈なのに窓の外が明るい
山の向こうの空が真っ赤だ
私の自宅のあるあたりである
火事が起きたのだ
父母はちゃんと逃げたのだろうか
その夜は余震もありまんじりともせずに過ごした