紫陽花の花(東京都台東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「人に尽くす」というと、皆さんはどんな気持ちがするでしょうか?
尽くすことは、一見、自分を犠牲にするような、どこか苦痛であるかのよう認識になるものです。
しかし、必ずしも、「尽くす=犠牲をする」とは限らないのです。
簡単な例で話しましょう。
「一日一善」という言葉、ありますよね。
これ、なんで言われているかというと、「人は支え合って生きてるんだし、人に親切にするのは気持ちいいから、やってみようね」と、
人に温かくすることで、自分の気持ちも温かくなるから…と、勧められているわけです。
だから、「無理矢理人に親切を押し売りする」とか、「相手の都合は二の次で、いい人ぶって自分に酔う」ために良いことをする、
こんなことは、どこにも言われていないわけです。
あくまでも、純粋に人の力になることはお互いにいい気分になるから、やってみませんかと言っているだけの話なんですね。
さて、これでお分かりになったでしょうか?
尽くすのは尽くすでも、人の力や幸せに預かれて、自分まで元気になれるなら、
それは積極的にやったほうがいいのです。
ところが、尽くして尽くして、自分まで擦り減ってしまうなら、
尽くす意味や目的を、見直してみたほうがいいのかもしれない。
冷静に考えれば、下手に巻き込まれるだけなら、なんのために力を差し出すのかは、果たして疑問にはならないでしょうか。
「尽くすこと」は、美徳に違いないかもしれません。
しかし、尽くすことで、その結果が不幸な顔なら、
顔がいけ好かないのですから、美徳とは感じてもらえないことだってあるのです。
もちろん、いつだって明るく元気でやれるとは限りませんし、
いくら「犠牲は望ましくない」とて、ある程度は犠牲を払いつつ、何かに尽くしていくという場合もあるでしょう。
しかし、です。
「正しく尽くすとは、尽くすことで元気になる」という原則がわかっているか、
なるべく望ましい状態に近づけるように考えているかです。
自分を粗末にしなくても、自分も人も、明るく元気にしていける道はあるはずなんですね。
「人のためなら」という考えでいると、ついつい心の姿勢には無関心になってしまうもの。
でも、自分を大切にしても、罰は当たらないのですよ。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「人に尽くす」というと、皆さんはどんな気持ちがするでしょうか?
尽くすことは、一見、自分を犠牲にするような、どこか苦痛であるかのよう認識になるものです。
しかし、必ずしも、「尽くす=犠牲をする」とは限らないのです。
簡単な例で話しましょう。
「一日一善」という言葉、ありますよね。
これ、なんで言われているかというと、「人は支え合って生きてるんだし、人に親切にするのは気持ちいいから、やってみようね」と、
人に温かくすることで、自分の気持ちも温かくなるから…と、勧められているわけです。
だから、「無理矢理人に親切を押し売りする」とか、「相手の都合は二の次で、いい人ぶって自分に酔う」ために良いことをする、
こんなことは、どこにも言われていないわけです。
あくまでも、純粋に人の力になることはお互いにいい気分になるから、やってみませんかと言っているだけの話なんですね。
さて、これでお分かりになったでしょうか?
尽くすのは尽くすでも、人の力や幸せに預かれて、自分まで元気になれるなら、
それは積極的にやったほうがいいのです。
ところが、尽くして尽くして、自分まで擦り減ってしまうなら、
尽くす意味や目的を、見直してみたほうがいいのかもしれない。
冷静に考えれば、下手に巻き込まれるだけなら、なんのために力を差し出すのかは、果たして疑問にはならないでしょうか。
「尽くすこと」は、美徳に違いないかもしれません。
しかし、尽くすことで、その結果が不幸な顔なら、
顔がいけ好かないのですから、美徳とは感じてもらえないことだってあるのです。
もちろん、いつだって明るく元気でやれるとは限りませんし、
いくら「犠牲は望ましくない」とて、ある程度は犠牲を払いつつ、何かに尽くしていくという場合もあるでしょう。
しかし、です。
「正しく尽くすとは、尽くすことで元気になる」という原則がわかっているか、
なるべく望ましい状態に近づけるように考えているかです。
自分を粗末にしなくても、自分も人も、明るく元気にしていける道はあるはずなんですね。
「人のためなら」という考えでいると、ついつい心の姿勢には無関心になってしまうもの。
でも、自分を大切にしても、罰は当たらないのですよ。