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285 「宮澤先生を追ひて」

           では今回からは、『 四次元』の中に千葉恭がシリーズで連載した「宮澤先生を追ひて」を見てみたい。 1.賢治と出会う前までの千葉恭  まずはその第一回目の4号(昭和25年1・2月合併号)から見てみよう。千葉恭は次のようこに述べている。  現代社會の別の世界を求めてそこに生きて行くことが私の今の心であり實行であるのです。私が先生と知り合つたのは大正十三年秋、私がまだ十九歳の大人 . . . 本文を読む
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284 千葉恭から見た賢治

         では今回は前回報告した講演後の質疑応答から一部抜粋して報告してみたい。 1.講演後の質疑応答 問 賢治の農民指導の態度について。 答 一年生には二年生に教える気持ちで、又二年生には三年生に教える気持ちで接しなければならない。人間は余り偉くなつてはいけないということは、みんなと一緒に偉くなるということで、一人だけ偉くなつてはならないというだという風に言つておられた。 問 講演会 . . . 本文を読む
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283 下根子桜の自炊独居?生活

       ついいままでず~っと、宮澤賢治は下根子桜(羅須地人協会時代)では「自炊独居生活」をしていたとばかり思っていた。ところが最近、羅須地人協会時代に半年間ほど賢治と一緒に生活していた千葉恭(きょう)なる人物がいることを知った。 1.『ふるさとケセン』67号  早速、『宮沢賢治 語彙辞典』(原 子朗著、東京書籍)で千葉 恭を引いてみたのだが全く記載されていないようだ。  そこで、いまま . . . 本文を読む
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282 『森林軌道』

      《1↑ 五万分の一地図「沼宮内」(陸軍参謀本部発行)抜粋》  以前”『森林軌道』は何処で詠まれたか”において、賢治の詩『森林軌道』には森林軌道そのものやそれに関わる用語は一切出て来ないのに何故このような題名なのだろうか、あってもせいぜい下書稿の(二)や(三)にちょっとだし…と訝しく思ったことなどを投稿したことがある。 1.『森林軌道』(下書稿(一))  うっかりしていました、下書稿 . . . 本文を読む
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281 笹森山

     <1 ↑『岩手日報16面(平成22年9月21日付)』より>  以前 ”『森林軌道』は何処で詠まれたか”において、賢治は1925年1月25日(日曜日)に一本木野の笹森山に登ったりして  『四〇七 森林軌道』 の詩を、また ”寅吉山とは岩手山のことでなかろうか”においては同様  『四〇八〔寅吉山の北のなだらで〕』 の詩をやはり笹森山の頂上で詠んだのではなかろうか、というような推測を述べたこ . . . 本文を読む
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280 松田甚次郎の貢献

     《↑『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、日本社)表紙》  以前”『宮澤賢治名作選』出来”において、生前全国的には無名だった宮澤賢治を広く世に知らしめることが出来たのは松田甚次郎に依るところが多いと思う、というようなことを述べたつもりだった。また、吉本隆明が宮澤賢治に関心を持ち始めた切っ掛けは松田甚次郎編集の『宮澤賢治名作選』だったということは以前”『吉本・甚次郎・賢治』”で述べたとおりである . . . 本文を読む
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279 賢治と昔話(あるいは伝説)

        《1 ↑永明寺》(平成20年9月24日撮影)  前回同様、今回も”「早池峰と賢治」展示館”に掲示してある 《2 パネル『河原の坊』》(平成22年4月8日撮影)     から話を始めたい。  このパネルには  河原の坊は宝治元年(1244←1247?投稿者)8月の白髭水によって流失してしまったと伝えられ、賢治は「河原坊(山脚の黎明)」という詩の中で、右記のように詠んでいることから . . . 本文を読む
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278 河原坊にかつて掲げてあった賢治の詩

    《↑『宮澤賢治の山旅』(奥田博著、東京新聞出版局)表紙》  以前”「早池峰と賢治」展示館”で次のようなことを投稿したことがある。 ************************************************************************************************** 《7 『河原の坊』》(平成22年4月8日撮影)        . . . 本文を読む
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277 花巻が燃えた日

      《1↑『あなたの町で戦争があった』(加藤昭雄著、熊谷印刷出版部)表紙》  花巻に十数年住んでいたのにもかかわらず、花巻空襲の実態を全く知らずにいた。 1.花巻空襲  加藤昭雄氏の著書『花巻が燃えた日』や『あなたの町で戦争があった』には、8月10日の花巻空襲に関しては以下のようなことなどが述べられている。  1945年(昭和20年)8月10日の花巻は朝からじりじりと暑い日であった。 . . . 本文を読む
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276 専念寺へ参りましょう

       《1↑現在の専念寺》(平成22年9月2日撮影)  では今回は山折哲雄氏の母の実家、専念寺を訪ねてみたい。 1.専念寺予備知識  まずは昭和20年頃の専念寺の場所を確認する。それは下図 《2 花巻空襲罹災区域》     の地点”S”に当たる。たしかに専念寺は斜線部分(空襲火災罹災区域)にはなく、専念寺は火災から免れているということがこの図からも判る。  ところで、山折氏は『17 . . . 本文を読む
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275 「気違い賢治」と寒行

        《1↑『17歳からの死生観』(山折哲雄著、毎日新聞社)》  花巻に住んでいると宮澤賢治のかつての風評が聞こえてくる。すっかり聖人・君子化されてしまった賢治だが、当時の地元の認識は一般にはそういうものではなかったいうことが漏れ聞こえてくる。ただしそれを堂々と公言する雰囲気に今の花巻はないとも思う。  ところが、大胆にもそのようなことを言っている人がいた。山折哲雄氏である。 1.山 . . . 本文を読む
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274 花巻空襲と賢治の実家

         《1 ↑「花巻町戦災区域」(『花巻の歴史・下』、及川雅義著、図書刊行会)より》  山折哲雄氏が次のようなことを語っている。  中学2年生の(昭和20年)8月10日、200mぐらい先でダダダダ、ダダダダダと機銃掃射された経験がある。そのときの恐怖感といったらなかった。そして艦載機が去って後花巻の街が燃え始めた。  その折、私の家(=専念寺、投稿者註)が焼けてしまうと火災の被害がさ . . . 本文を読む
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272 「岩手県国民高等学校」と賢治

     《↑ 『私の宮澤賢治散歩 上巻』(菊池忠二著)表紙》 1.『私の宮澤賢治散歩』から  さて前回触れたように、岩手県立青年学校教員養成所は「六原青年道場」に併設されていたわけだが、菊池忠二氏は次のように述べている。  「六原青年道場」は日本国民高等学校の指導理念と教育方法を取り入れ農村青年の大量育成にあたった。 と。  このことは同著の『岩手県国民高等学校と「農民芸術」論』という章の中に . . . 本文を読む
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271 「青年学校」について

              《1↑ 『六原道場思い出の記』(千田みさほ著)表紙》  以前”再び「雄叫び」について”において次のような写真を載せ ********************************************************************************** 【一〇 雄叫び】 ということで「雄叫び」のイメージがある程度できた。写真からはグラウン . . . 本文を読む
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270 加藤完治と戦争責任

  《1↑ 加藤完治(『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)より)》  高村光太郎が太田村山口の山小屋で7年間に亘って己をいわば「流謫の刑」に処していたのに対して、己の戦争責任の取り方に関してその対極にいた(上 笙一郎の表現を借りれば「己の戦争責任に平然としていた」)と思われる人物の一人に加藤完治がいる。 0.松田甚次郎と加藤完治  昭和2年、あの松田甚次郎は盛岡から . . . 本文を読む
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