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334 滞京中の「高等遊民」賢治

               <↑『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)>

 さて、大正15年12月3日に着京した宮澤賢治はその後どのような東京暮らしをしていたのか。『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の年譜を基にして滞京約一ヶ月の主だったことを探ってみたい。

一二月三日(金) 着京し、神田錦町三丁目一九番地、上州屋の二階六畳に下宿を決め、勉強の手筈もととのえる。夕刻本石町の小林六太郎訪い、香水、粉石鹸のことを聞き、夕食の供応を受け、ふとんを貸してもらうことにした。
一二月一二日(日) 午後神田のYMCAタイピスト学校で知りあったシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。フィンランド公使の言語学者ラムステットの日本語講演、その後公使と農村問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述するのが一番だといわれる。この人に自分の本を贈るためにもう一度公使館に訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の各四冊ずつを送ってほしいと父へ依頼。
 なお上京以来の状況は、図書館(上野)で午後二時頃まで勉強、そのあと神田の美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋のそばの新交響楽協会練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習する、というのがきめたコースであるが、、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓がそうである。
 上京二〇日間のうちに築地小劇場を二度見た。歌舞伎座の立見も
した。

     <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
 ところで、この12/12付の書簡には次のようなことも書かれている。
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
     <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>

 つい、賢治のチェロはそれほどでもなかったと私は思っていたのだが、もしこの手紙に書いてあるとおりだとすれば、チェロはさておき賢治は結構オルガンは上手かったということになるのかな。そして賢治自身はこの先生から褒めてもらったことにより、詩作のためのオルガンの力量の必要条件は満たしたと考えたのだ。
 ならば、「三日でセロを覺えようとした人」の著者でもありこのときのセロの先生(大津三郎)の証言
 どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので……」とのことであつた。
     <『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)より>
はどのように解釈すればいいのだろうか。つい、賢治はオルガンを今迄練習してきたがなかなか上達しないのでセロに転向しようとしたのだ、とばかり思っていたのだが…。詩作の必要上オルガンを練習してきたと言う賢治だから、エスペラントの詩の場合に限れば、朗誦伴奏はオルガンよりチェロがふさわしいという、賢治の芸術的な直感だったのだろうか。

一二月一五日(水) 父あてに状況報告し、小林六太郎に費用二〇〇円預けてほしいと依頼。
「いくらわたくしでも今日の時代に恒産のなく定収のないことがどんなに辛くひどいことか、むしろ巨きな不徳であるやうのことは一日一日身にしみて判って参ります(中略)わたくしは決して意思が弱いのではありません。あまり生活の他の一面に強い意思を用ひてゐる関係から斯ういふ方にまで力が及ばないのであります。」

     <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>

 もう少しこの書簡の中味を詳しく見てみると、以下のような手紙であった。
御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるかと存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうおねがひいたします。
図書館の調べものもあちこちの個人授業も訪問もみなその積りで日程を組み間代授業料回数券などみなさうなって居りましていま帰ってはみな半端で大へんな損でありますから今年だけはどうか最初の予定の通りお許しをねがひます。それでもずゐぶん焦って習ってゐるのであります。毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校数寄屋橋の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。一時間も無効にしては居りません。音楽まで余計な苦労をするとお考へではありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。もうお叱りを受けなくてもどうしてこんなに一生けん命やらなければならないのかとじつに情なくさへ思ひます。
今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうろっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。けれどもいくらわたくしでも今日の時代に恒産のなく定収のないことがどんなに辛くひどいことか、むしろ巨きな不徳であるやうのことは一日一日身にしみて判って参りますから、いつまでもうちにご迷惑をかけたりあとあとまで累を清六や誰かに及ぼしたりするやうなことは決していたしません。わたくしは決して意思が弱いのではありません。あまり生活の他の一面に強い意思を用ひてゐる関係から斯ういふ方にまで力が及ばないのであります。そしてみなさまのご心配になるのはじつにこのわたくしのいちばんすきまのある弱い部分についてなのですから考へるとじっさいぐるぐるして居ても立ってもゐられなくさへなります。どうか農具でも何でもよろしうございますからわたくしにも余力を用ひて多少の定収を得られるやう清六にでも手伝ふやうにできるならばお計ひをねがひます。それはまづ今月末までにでもご相談くださればできなくても仕方ありません。まづは。

     <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>

 先ずこの手紙のポイントは出だしかなと思った。
 その一つ目は
 小林様は十七日あたり花巻へ行かれる
とあり、小林六太郎から二百円を借りるための伏線をまず張っておいていること。
 二つ目は
 廿九日までこちらに居る
であり、上京の際に賢治が澤里武治に語った決意『沢里君、セロ持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する。…』
の”少なくとも三か月”は滞京10日程を経た時点でいとも簡単に(?)諦め、約1ヶ月で帰郷することを決意していたということになる。これは、案外賢治は他人に言ったことを簡単に翻すことが多いと思うがその一例であろう。

 いずれ、たしかにこの書簡では200円もの大金を父政次郎に無心していることが確認できた。この200円については後述するように再度無心しているから、この大金を賢治は是非とも必要としていたのであろうが…。

 なおもちろん、この書簡におけるような身勝手で我が儘な申し出を我が子がすれば私などは絶対許さないし、もし私が子であるならば三十歳を過ぎてこのような弁解がましい申し出を父に対してするなどは破廉恥過ぎて口が裂けてもできない。しかし政次郎は我が子が天馬であることを判っていたから賢治を信じ、そうしなかった。政次郎は偉かったと思う。また、賢治がかくの如き厚かましいことを三十過ぎてずうずうしくも言えることは彼が天才の天才たる所以なのかもしれない…。

 このあたりに関しては、佐藤隆一氏は冷静に次のような語っている。
 教師を止め、農民になるという強い願望が実現した賢治は、定収入が消えたことで再び親がかりことばがあったとなった。これでは、自立しているとは到底いえない。東京での生活も自分の金ではない。賢治は失格である。
 ふつうの人は、さまざまな可能性を断念し自分を限定しながら生きていく。賢治はそうできなかった。いまのことばでいえば、モラトリアム青年だろうか、当時は高等遊民ということばがあった。「高等教育を受けていながら、職業につかない人」と、『宮澤賢治語彙辞典』(原子朗著、東京書籍刊)にはある。

     <『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)より>
そうか、佐藤氏に言わせれば賢治は「高等遊民」だったのか。

 そこで大辞泉を引いてみると
 世俗的な労苦を嫌い、定職につかないで自由気ままに暮らしている人。明治末期から昭和初期の語。
となっている。昭和初期までこのような実態があったのだ。そして、このような言葉が当時あったということは当時そのような人種が少なからずいたということであろう。
 たしかに、このときの滞京時における賢治の有り様は「高等遊民」状態であったかもしれない。世俗的な労苦を賢治が嫌っていたか否かは私には定かには判らないが。

一二月一八日(土)または二〇日(月) 本郷駒込千駄小林町一五五番地に高村光太郎を訪う。…(略)…手塚の記憶によると、高村光太郎はふだんとちっとも変わらぬ態度で、賢治にいつごろ出てきたか、何を勉強しているか、岩手ではどのような生活をしているかを問い…(略)…、夕方になり、一緒に飯を喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は…(略)…聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた。
     <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
ということだが、玄関で一寸会っただけだという説もあるのだそうだ。

一二月二〇日(月)前後 父へ返信 重ねて二〇〇円を小林六太郎が花巻へ行った節、預けてほしいこと、既に九〇円立替えてもらっていること、農学校へ五七葉額縁大小二個を寄贈したことを知らせる。
一二月二三日(木) 父あて報告 調べもだんだん片附き重荷もおりたような気のすること、二一日小林家から二〇円受け取ったこと、二九日夜発つことをしらせる。

     <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
というわけで、この書簡で賢治は200円の無心を再度父にしていたことが判る。

 ちょうど賢治がこのようにして東京で勉強に勤しんでいた頃、古里岩手では毎日のように赤石村や不動村そして紫波村などの旱害惨状が報道され、遠く東京の小学生からさえもその義捐の寄付金が届いたという報道などがなされていた。

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