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203 いわば岩手駒ヶ岳(その2)

 ”いわば岩手駒ヶ岳”の続きである。

 では、下賽の河原を後にして
《1 平坦な山道》(平成21年10月12日撮影)

を進む。あるガイドブックにこのあたりに五葉松があると書いてあったが
《2 これがその五葉松?》(平成21年10月12日撮影)

なのだろうかと思い出しながら
《3 相変わらず平坦な山道》(平成21年10月12日撮影)

を進んでいるうちに
《4 上賽の河原に到着》(平成21年10月12日撮影)

する。そこには重量感を増した
《5 経塚山》(平成21年10月12日撮影)

が迫ってくる。
 宮澤賢治は詩『軍馬補充部主事』の中にこの経塚山を次のように登場させている。
   うらうらと降ってくる陽だ
   うこんざくらも大きくなって
   まさに老幹とも云ひつべし
   花がときどき眠ったりさめたりするやうなのは
   自分の馬の風のためか
   あるひはうすい雲かげや、
   かげらうなぞのためだらう
   よう調教に加はって
   震天がもう走って居るな
   膝がまだ癒り切るまい
   列から出すといゝんだが
   いやこゝまで来るとせいせいする
   ひばりがないて
   はたけが青くかすんで居る
   その向ふには経塚岳だ
   山かならずしも青岱ならず
   残雪あながちに白からずだ
      (以下略)

   <『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
はたして賢治は、六原の軍馬補充部のどの辺りからこのとき経塚山を望んだのだろうか。   
 上賽の河原を後にし
《6 紅葉の中の登山路》(平成21年10月12日撮影)

を進むと、ほどなく 
《7 駒形神社奥宮が見えてきた》(平成21年10月12日撮影)

(上の写真の)手前に見えるのは三角点である。なお、この
《8 三角点石柱》(平成21年10月12日撮影)

の建っている場所は神社の建っている場所よりは明らかに結構低い。
 残念なことに、ブロックなどを用いて造られているようで
《9 頂上・駒形神社奥宮》(平成21年10月12日撮影)

は大分傷んでいて、
《10 奥宮正面にお知らせ》(平成21年10月12日撮影)

が書いてある。来年は奥宮が改修されるという。
 実際、当日は改修工事関係者が下見に訪れていていたし、遅れて、水沢の駒形神社宮司や氏子の方が沢山登ってこられた。
 因みに、次が
【Fig.2 昭和10年代の奥宮】

   <『南部領伊達領境塚展』(北上市立博物館)より>
であり、このときのものは木造である。

 ところで、陸中一宮 駒形神社のHPによれば、『駒形神社御由緒』の中に次のようなことが書いてある。
 上毛野・下毛野氏は、勢力を北にのばし、行く先々に祖国に習い、休火山で外輪山を持つ形のいい山を捜し出し、連山の中で二番目の高峰を駒ケ岳又は駒形山と名付け、駒形大神を奉祀した。奥州にも及び、胆沢平野から雄姿を目にし、山頂に駒形大神を勧請し、駒ケ岳と命名した。(中略) 坂上田村麻呂や源頼義・義家父子も駒形大神を篤く崇敬し、武運祈願成就した事実を知るにつけ、奥州に栄華を築いた藤原四代の崇敬も篤かった。平泉より北上川を隔てて、東に望む束稲山は駒形山とも言う。このことは峻険な駒ケ岳を度々登拝することは困難を来たす事もあり、この山に駒形大神を奉祀したと考えられる。箱根縁起に藤原秀衡が銅をもって神像を鋳。駒形の神に祀ったことは藤原氏がいかに崇敬の誠を捧げたか想像することが出来る。かくして駒形神社の崇敬は華々しく、分社は東北各県より関東に亘り、その数、百余社に及んでいる。
 ここでいう駒形大神は馬と蚕の守護神であり、馬頭観音あるいは大日如来と習合し、東日本各地に勧請されて「おこま様」と呼ばれているという。そのようなこともあってか、奥宮の脇には
《11 馬頭観世音塔》(平成21年10月12日撮影)

が一基だけある。

 さて、肝心の私の課題である”いわば岩手駒ヶ岳”の「経埋ムベキ山」の駒ヶ岳としての可能性についてである。

 今まで、いわゆる32座ある「経埋ムベキ山」あるいはそう思われる山に登ってきてみて、私はそれらの山々の特徴としては次のようなことが挙げられると思う。
(1) 基本的には岩手県内の山である。
  例外は(秋田)駒ヶ岳のみ。
(2) 花巻の地から望むことが出来る山が多い。
(3) 頂上には三角点がある山が多い。
(4) 頂上には神社、祠、石塔、権現様などがある場合が多い。

 このことに関して
  秋田駒ヶ岳を男岳とするなら該当するのは(4)のみ。
  秋田駒ヶ岳を最高峰の女目岳とするなら該当するのは(3)のみ。
 一方
  いわば岩手駒ヶ岳ならば(1)~(4)の全てが該当する。

 ところでなぜ秋田駒ヶ岳が定説となっているのだろうか。おそらく、その大きな理由は次のように
【Fig.2 『雨ニモマケズ手帳』143~144p】 

  <『校本宮澤賢治全集 資料第五』(筑摩書房)より>
に書かれた山々の配置からみて、駒ヶ岳の隣に書かれているのが岩手山だからであろう。実際、岩手山と秋田駒ヶ岳は”いわば岩手駒ヶ岳”より地理的に遥かに近い。もちろん、『雨ニモマケズ手帳』研究の第一人者小倉豊文氏は「経埋ムベキ山」の駒ヶ岳のことは迷うことなく秋田駒ヶ岳としている。
 
 最後に、次のようなことを駒ヶ岳に関しては付け足したておきたい。
 一般に岩手県人の多くは、秋田駒ヶ岳のことは単に『駒ヶ岳』とは呼ばずに『秋田駒ヶ岳』とか『秋田駒』と呼ぶことが多いと思う。逆に、(この頃私が”いわば岩手駒ヶ岳”と呼び始めている)夏油三山の一つである駒ヶ岳のことは、私の知る限りでは『駒ヶ岳』と呼ぶことが多いと思う。それは、今回報告したことからお解りのように、この”いわば岩手駒ヶ岳”は古くから尊崇されてきた山であり、多くの人の生活に密着していた山でもあったからであろう。

 というわけで、”いわば岩手駒ヶ岳”の「経埋ムベキ山」の駒ヶ岳としての可能性についての現時点での私の結論は、
   可能性がそこそこあるのではなかろうか。
である。
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