宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

163 丹内神社その2

2009年07月16日 | Weblog
 では今回は境内内の報告をしたいのだが、その前に、まずは境内前から振り返ってみた
《1 西根山の山並》(平成21年7月11日撮影)

である。
 一方、そこから境内を眺めると
《2 杉の大樹》(平成21年7月11日撮影)

が聳えている。
 境内の入口には
《3 丹内山神社と藤原清衡公の由来の説明板》(平成21年7月11日撮影)

があった。
 境内に入ると先ず目に入るのが
《4 爺杉の根株》(平成21年7月11日撮影)

樹齢2000年と伝えられ、大正2年に延焼で焼失した杉の古木の根株であるという。
《5 駒形神社》(平成21年7月11日撮影)

《6 三の鳥居》(平成21年7月11日撮影)

《7 舞踏殿と大銀杏》(平成21年7月11日撮影)

《8 忠魂碑と戦没者慰霊碑》(平成21年7月11日撮影)

《9 学びやのあとの石碑》(平成21年7月11日撮影)

何処の学校のものかは分からないが、石碑の裏側には
   山美しく水清く
   眺めつきせぬ谷内の
   学びの庭に生育つ
   色まだ浅き二葉松

と刻まれている。
 この石碑の 
《10 反対側》(平成21年7月11日撮影)

には
《11 神楽殿》(平成21年7月11日撮影)


《12 源義家弓射場跡》(平成21年7月11日撮影)

がある。
 更に境内を進むと
《13 鞘堂に覆われた社》(平成21年7月11日撮影)

があり、
《14 右八幡神社、左加茂神社との説明板》(平成21年7月11日撮影)

が建ててある。
 また、
《15 右疱瘡神、左安産の神》(平成21年7月11日撮影)

のこんな社もある。
 そして、これが
《16 丹内山神社相殿(観音堂)》(平成21年7月11日撮影)

であり、
《17 十一面観音立像》(平成21年7月11日撮影)

の案内があり、廃仏毀釈の際にこの立像は凌雲寺に移された。その後、一躯のみここに戻されて安置されていることなどが記されている。
 そして、
《18 丹内山経塚の案内板》(平成21年7月11日撮影)

があったから行ってみようと思って道を辿ったら
《19 ミゾホウズキ》(平成21年7月11日撮影)


《20 オニノヤガラ》(平成21年7月11日撮影)

には出会えたが、残念ながら道が途中から判らなくなり丹内山の経塚は見つからなかったので諦め、本殿を見に行く。
 そこで、まずは丹内神社の全体のイメージを
《21 丹内山神社参拝御案内》(平成21年7月11日撮影)

で確認したい。
 いまは、上の図の③の部分を眺めているところである。ただし案内図にはこの鳥居は『五ノ鳥居』とあるが
《22 四の鳥居》(平成21年7月11日撮影)

ではなかろうか。
 手前の石段を登りこの鳥居を通り過ぎると
《23 石の橋そして神門》(平成21年7月11日撮影)

がある。橋を渡らずに左側に行く。
《24 左側からながめた池》(平成21年7月11日撮影)

この池は神泉池というらしい。石垣作りの玉垣もかなりのものである。
 そして、そこには丹内山神社にある七不思議の一つ
《25 肌石》(平成21年7月11日撮影)


《26 早池峰山参拝石》(平成21年7月11日撮影)

がある。
 再び石橋の方に戻ると
《27 池の畔に何やらあり》(平成21年7月11日撮影)

《28 丹内神社の七不思議その4》(平成21年7月11日撮影)

《29 手水ばち》(平成21年7月11日撮影)

であり、この手水鉢はどんな旱天であっても水が乾くことはないというものだ。
 ではいよいよ橋を渡り、神門をくぐろう。するとそこには
《30 丹内山神社本殿》(平成21年7月11日撮影)

が現れる。
《31 丹内山神社由来》(平成21年7月11日撮影)

については、
   丹内山神社について
 この神社の創建年代は、約二千百年前、上古地方開拓の祖神、多邇知比古神を祭神として祀っており、承和年間(八三四~八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として篤く加護されてきたと伝えられる。さらに、明治初めの廃仏毀釈により丹内山神社と称して現在に至っている。
 この本殿は、現存の棟札によると、文化七年(一八一〇)に再建されたもので、盛岡南部利敬公の代、当時の別当は小原和泉實吉であり、棟梁には中内村の吉重郎、脇棟梁に八重郎・宇助が建造に当たったことが知られる。
 この建造物の特徴として、本殿の内陣には、権現づくりの逗子が据えられており、正面・側面の外壁一面に中国の古事や古事記・万葉風の彫刻、脇障子には唐獅子と牡丹が彫刻されている。県内の社寺建造物の内では彫刻装飾優位の建物で、当時の地方大工の力量を知ることが出来る貴重なものであり、平成二年五月に県指定有形文化財(建造物)となっている。
 又、本殿の左側山頂付近の経塚(県指定史跡)から全国でも数個しかないと云われる影青四耳壺(白磁無紋の壺、北宋の花瓶)、湖州鏡、中国古銭、経筒など(県指定文化財)が出土しており、平安時代末期頃からの地域の優れた文化の跡が偲ばれる。
                  東和町教育委員会

と案内されている。
 この案内にあるとおり、確かに次のように立派な本殿である。
《32 本殿》(平成21年7月11日撮影)

《33 〃 》(平成21年7月11日撮影)

《34 〃 》(平成21年7月11日撮影)

《35 〃 》(平成21年7月11日撮影)

《36 〃 》(平成21年7月11日撮影)

《37 〃 》(平成21年7月11日撮影)

《38 〃 》(平成21年7月11日撮影)

《39 社務所》(平成21年7月11日撮影)

《40 丹内山神社七不思議その二》(平成21年7月11日撮影)

《41 アラハバキ大神の巨岩》(平成21年7月11日撮影)

《42 〃 》(平成21年7月11日撮影)

《43 胎内くぐり》(平成21年7月11日撮影)


 以前、”賢治と東和町(成島毘沙門天その1)”で報告した成島の毘沙門天と、この丹内山神社は猿ヶ石川を挟んで対峙しているが、その間の直線距離は8㎞にも満たない。にもかかわらずそのいずれもがこのあたりにしては立派過ぎる神社である。それは不思議なことであり、想像は膨らむ。それが故にか、小説家高橋克彦氏はこの東和の地を小説『火怨』などに登場させ、物部氏の末裔の本拠地にしている。
 それはさておき、宮澤賢治はそのそれぞれに対して『祭日』という題で文語詩を詠んでおり、前者に対しては『祭日(二)』であることは以前に記したとおりである。これらの詩から、さぞかしそれぞれの神社のかつての祭日は賑わっていたたことであろうことがうかがえる。
 
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